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2009年12月16日水曜日

ユダヤ人も知らないユダヤ人が書いたクリスマスソング集

今週は世界中あちこちの街角でクリスマスソングが流れていることでしょうね。エルサレムの街角までには流れてきませんが。。。エルサレム在住のキリスト教徒たち(*)は「マッチ売りの少女」のように、マッチ一本の小さな光で想像力をかき立てながらクリスマス気分を味っているよう見えます。(とそこまで言うと大げさでしょうか。)それでもこの時期のエルサレム在住のキリスト教徒は皆ホームシックにかかったような表情をしているんですよね。ホームはここなのにアット・ホームな場所を探しているようで‥‥。この空気は、エルサレムの外にいるキリスト教徒には分からないでしょうね。そんなマッチ売りの少女達を励ますためにクリスマスソングをお届けしましょう。ただ曲を並べるだけじゃ面白くないので、せっかくだからユダヤ人の間では話題にされない「ユダヤ人が書いたクリスマスソング」をあえて選んでお届けすることにします。曲名をクリックするとユーチューブで視聴できるようにしました。曲を聴きながら「作詞作曲したユダヤ人たちはどんな感情をこれらの曲に込めたか」などと想像してみるのも面白いかもしれません。良きクリスマスをお送り下さい。


1)真っ赤なお鼻のトナカイさん [Rudolph the Red Nosed Reindeer]:作曲家ジョニー・マークス(1909−89)は米国NY市出身のユダヤ人。彼が作曲したクリスマスソングは他にもRochin’ Around the Christmas Tree、Holly Jolly Christmas、I Heard the Bells on Christmas Day等がある。


2)ホワイトクリスマス[White Christmas]:作曲家アーヴィング・バーリン(1988−1989)はベラルーシ生まれで米国へ移民したユダヤ人。彼はアメリカ第二の国歌として知られる「God Bless America」の作詞・作曲家でもある。


3)サンタが町にやって来る[Santa Claus is Coming to Town]:作曲家ジョン・フレドリック・コーツ(1897−1985)は米国NY出身のユダヤ人。この曲はヘブン・ギルスピーとの共作


4)シルバーベルズ[Silver Bells]:作詞家レイ・エバンズ(2015−2007)は米国NY市出身のユダヤ人。作曲家ジェイ・リビングストン(1915−2001)は米国ペンシルバニア市出身のユダヤ人。


5)クリスマスを我が家で[I’ll Be Home for Christmas]:作曲家ウォルター・ケント(1911−1994)は米国のユダヤ人。


6)レット・イット・スノー[Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!]:作詞家サミー・カーン(1913−93)は米国NY市出身のユダヤ人。作曲家ジュール・スタイン(1905−1994)は英国生まれ、米国育ちのユダヤ人。


7)スレイライド[Sleigh Ride]:作詞家ミッチェル・パリシュ(1900−93)はリトアニア生まれで米国へ移民したユダヤ人。


8)ザ・クリスマスソング[The Christmas Song (Chestnuts Roasting on an Open Fire)]:作曲家メル・トーメ(1925−1999)は米国シカゴ市出身のロシア系ユダヤ人。共同作曲家ロバート・ウェルズ(1922−98)も米国のユダヤ人。


9)ドゥ・ゼイ・ノー・イッツ・クリスマス[Do They Know It’s Christmas? (Feed the World)]:作曲家ミッジ・ユーロ(1953ー )はスコットランド出身のユダヤ人。共同作曲家ボブ・ゲルドフ(1951− )はアイルランド出身で、ユダヤ人の祖父母を持つ。


10)サンタ・ベイビー[Santa Baby]:作曲家ジョアン・ジャビッツ(1928− )は米国のユダヤ人。米国の政治家ヤコブ・ジャビッツ(1904−86)の姪にあたる。


11)[It’s the Most Wonderful Time of the Year]:作曲家ジョージ・ワイル(1916−2003)は米国NY市出身のユダヤ人。


12)[There’s No Place Like Home for the Holidays]:作詞家アル・スティルマン(1906−79)は米国NY市出身のユダヤ人。


13)[Hark The Harold The Angels Sing]:作曲家フェリックス・メンデルスゾーン(1809−47)はドイツ出身のユダヤ人。後にキリスト教徒になった。この曲にまつわる歴史はココを。日本語では教会賛美歌98番、聖歌123番の「天には栄え」などの邦題で知られている。


以上です。他にもあればどなたか教えて下さい。後でここに貼付けますので。


写真)米国NY市在住のイラストレーター、ラヘル・イサドラ(Rachel Isadora)が描いた「マッチ売りの少女』

 )ここで言うキリスト教徒はごくごく普通の信者たちです。教会に仕える修道士や修道女たち、もしくはメシアニック・ジューたちはそれぞれ異なる次元でこの時期を迎えていると思うので‥‥。

参考InterfaithFamily.com: The Jews Who Wrote Christmas Songs


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2009年11月20日金曜日

昨年指定されたイスラエルの祝祭日:エチオピア系シグド祭

昨年7月、クネセット(イスラエル国会)はエチオピア系ラビの申請を受けていたエチオピア系ユダヤ人の宗教祭、シグド祭 [Sigd]を正式にイスラエル国の祝祭日に指定しました。シグド祭はユダヤ暦ヘシュバン月[חֶשְׁוָן:意味は8番目の月。時期的にはユダヤ宗教暦から数えて8ヶ月目の晩秋の29日にお祝いします。まだ制定されたばかりで、非エチオピア系の国民にはまだ馴染みがありません。そこでシグド祭を紹介させていただきます。


私も実は先週はじめてシグド祭の存在を知った者なので、このブログに載せるために勉強してみました。簡単に申し上げると、ユダヤ教のシャブオット祭のエチオピア版です。このシャブオット祭は、ペサフ祭(過ぎ越し祭:出エジプトの記念祭)から数えて7週間後に持つ祝祭で、シナイ山麓に居住していたイスラエルの民のために神がシナイ山頂でモーセを通して与えた十戒とその他もろもろの教えを記念してお祝いします。しかしエチオピア系ユダヤ教の伝統では、神の律法は、ソロモン時代、分裂王国時代、捕囚と離散時代を経て、イスラエルの民に忘れられていき、再び神の教えに立ち返り、律法を読み直したのがエズラ・ネヘミヤの時代だった。その時期が、ヨムキップール(ユダヤ新年に持つ悔改めと罪のあがないの日)明けから数えて7週目だったというのです。そしてヨムキップール明けの仮庵祭が喜びの週であるように、このシグド祭ではヘシュバン月の29日の週に詩篇を読み、歌って踊り、喜ぶのだそうです。

というわけでシグド祭も、シャブオット祭とコンセプトは同様らしく、律法を授かったことを喜ぶお祭りのようです。正確には律法授与ではなく律法再読の喜びだと思いますが。詳しくは聖書のネヘミヤ記8章1〜3節でご確認下さい。

国の祝祭日として指定されて2年目の今年、シグド祭は先週の11月16日(月)から始まっています。この日は国内から3500人(非公式のニュースでは一万人)のエチオピア系ユダヤ人達が都上りをし、エルサレムで集会を開きました。

祈り)エチオピア系ユダヤ人はイスラエル国に約12万人いると言われています。エチオピア人にとり、シグド祭は自分たちのユダヤ性の保持に加え、この国で民族的アイデンティティーを主張できる祭りです。エチオピア系ユダヤ社会に今週シグド祭の喜びが満ちあふれますように。

参考)11月17日付け:エルサレムポスト紙
エチオピア系ユダヤ人のHP:宗教、言語、食事、音楽、伝統などを簡単に紹介しています。
・こちらはシグド祭の写真集:クリック
写真)1枚目(Jewish Daily Forward: Nathan Jeffay)、2枚目はエチオピア系ユダヤ教のラビ達。(写真家:Melanie Lidman)
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2009年11月14日土曜日

「信仰の敵」次々と襲った極右イスラエル人逮捕

11月7日付け産経新聞、大内清氏の記事をそのまま下記に添付します。イスラエル社会が右傾化してきているのでは、と地元のニュースでも大きく取り上げられています。——————————

イスラエルで10月、入植地に住むユダヤ教超正統派の男が逮捕された(写真)。男は12年間にわたり、パレスチナ人殺害やイスラエル人平和運動家襲撃、イエスを救世主として信奉するユダヤ人「メシアニック・ジュー」への爆弾テロを実行したほか、8月に同性愛者2人が殺害された事件に関与した疑いもある。民族、政治信条、信仰の違う人々を次々と標的にしていたこの男。同国メディアは、極端な宗教観に突き動かされた「テロリスト」として、生い立ちや思想的背景について大きく報じている。

 ■厳格な家庭・入植活動に傾倒

 男はヨルダン川西岸中部のイスラエル人入植地シュブト・ラヘルに住むコンピューター技術者、ヤコブ・テイテル容疑者(37)。8月にテルアビブで起きた同性愛者の襲撃事件を支持するビラを配ったとして10月7日、同国の国内情報機関シンベトと警察当局によって逮捕され、他の事件への関与についても供述を始めた。

 イスラエル紙ハアレツ(電子版)などによると、テイテル容疑者は1972年、米フロリダ州に生まれた。両親とも超正統派のユダヤ教徒で、幼いころから宗教的に厳格な家庭環境で育った。大学では心理学を専攻したという。

 90年代半ばごろから、ユダヤ人の若者の間で広まった西岸への入植活動に傾倒し、観光ビザを使ってイスラエルに頻繁に渡航するようになった。

 テイテル容疑者はその後、米国でコンピューターに関する資格を取得し、99年から実際に入植地で生活を開始。2000年にイスラエルに帰化した。3年後には英国出身のユダヤ人女性と結婚し、4人の子供をもうけた。

 ■「静かな性格」

 「物静かな性格で、ほかの入植者との付き合いも少なかった」

 親族ら関係者がこう口をそろえるテイテル容疑者。だが、その裏では、次々と凶悪犯罪に手を染めていた。

 これまでに判明しているだけでも、テイテル容疑者が実行したとみられている事件は多岐にわたる。

  ▽パレスチナ自治区ヘブロンでパレスチナ人の男性2人を射殺(イスラエル移住前の1997年)

  ▽「メシアニック・ジュー」の一家がプレゼントを装った爆発物を送りつけられ、15歳の息子が重傷(2008年3月)

  ▽パレスチナとの和平・共存を主張する平和運動家の大学教授宅に仕掛けられた爆弾が爆発し、教授がけが(同年9月)

  ▽同性愛者パレードの警備を担当した警察署の爆破未遂(時期不詳)

 同紙によると、当局では、8月にテルアビブの同性愛者集会所で男女2人が殺害された事件についても、仲間を使って襲撃させた可能性があるとみて調べを進めている。97年の別のパレスチナ人殺害事件にも関与していた可能性が高いという。

 ■信仰上の「敵」

 接点がないようにも見えるこれらの事件だが、狂信的なまでの超正統派ユダヤ教徒であるテイテル容疑者にとっては、いずれの事件の被害者も、信仰上、許すことのできない「敵」だったようだ。大学教授を狙った事件の現場近くには、ユダヤ教の教えに反する政策をとっているとして政府を激しく非難するメモも残されていた。

 こうしたことから、テイテル容疑者の犯行の動機には、西岸全土を含む土地をイスラエルの領土と見なしてパレスチナ国家を否定したり、同性愛者やメシアニック・ジューを異端視したりするユダヤ教強硬保守派の考え方が色濃く反映していることは間違いないとみられる。当局ではさらに動機の解明を進めるとともに、ほかに関与した事件がないか調べている。

 一方、同国の英字紙エルサレム・ポスト(電子版)によると、イスラエルでは近年、アラブ系女子校爆破未遂(2002年)や、アラブ系市民4人が殺害された事件(05年)などユダヤ教徒による凶悪犯罪が続発。パレスチナ人らを標的とした未解決事件も多い。

 それによってパレスチナ側の態度をさらに硬化させて報復を招くという面もあるだけに、メディアでは捜査当局に対し、こうした事件の摘発強化を求める声も高まっている。

感想)テイテル容疑者と並行して、ロシア移民のユダヤ人による一家6人殺害事件も最近のニュースでした。こちらは世俗派のユダヤ人の間で起きた事件。どちらも移民してきたユダヤ人ということで、移民したユダヤ人(アリヤー組)には痛いニュースです。またイスラム教徒を殺害したテイテル容疑者は、同胞をも—メシアニック・ジューや同性愛者でしたが—殺そうとしました。また彼の立場を擁護する超正統派のラビもどうやら存在するようで、ユダヤ教内の右派と左派の対立は今後激化しそうです。

祈り)イスラエルではユダヤ人の間にある左翼と右翼の対立は政界と宗教界の間にはつきものです。最近は大学内でも対立が目立っています。彼等がものさしとする「聖書」そのものの解釈にアカデミックな世界でも大きなズレが生じている様子。この大きなズレと議論と対立を通して、彼等が追求してやまない“神の義”—神の目から見て何が本当に正しいのかを—極めていけますように。

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2009年11月6日金曜日

アラブ語版「アンネの日記」出版に向けて

世界的ベストセラー「アンネの日記」の新しいアラブ語版がレバノン国で出版されました。しかし同国内のテロ組織ヒズボラが反発し、レバノン政府に出版関係者の逮捕を要求しています。またこの本は、ファーシー語(別称ペルシャ語:イラン、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンで話されている言語)にも訳されて、同時出版されました。

『アンネの日記』を知らない人はいないと思いますが、彼女の生涯やホロコースト史を詳しく知りたい方のために下記にリンクを貼っておきます。
・ウィキペディア「アンネの日記」
「アンネの日記」とユダヤ人虐殺:ホロコースト
・ウィキペディア「アンネ・フランクの家」

祈り)ホロコースト否定論がまかり通ると、およそどの民族間にも存在する妬みの感情や敵対心に対して、世界は制御できなくなります。ですからイスラム教圏内にホロコースト史を語る学校が少ないといわれる中で、こうして発行されたアラブ語版「アンネの日記」が普及し、読まれていきますように。

参考記事)11月4日付け、ハアレツ紙

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2009年10月29日木曜日

中国系ユダヤ人7名、イスラエルに帰還

「僕の夢は正式なユダヤ教徒に立ち返り、正規のラビになることなんだ。」そう興奮気味に語るのは、先週念願の故国の地へ帰還した23歳のヤコブ・ワン君。彼を含む7人の青年達は、失われたイスラエル十部族の一族と考えられている中国・開封出身の中国系ユダヤ人です。写真はベングリオン国際空港に到着した時の写真です(撮影:Michael Freund)イスラエル到着後、一行が最初に訪れた場所はエルサレムの神殿でした。仲間の1人、ハング・シル君(24歳)は「信じられない!僕は何年間もずっと嘆きの壁を訪れたいと願って[エルサレムの]絵を描き続けてきたんだ。その夢が叶えられるなんて。」と万感の思いを語っています。


彼等はイスラエル内務省から一年間猶予の特別移民ビザを受け取り、今後一年間はユダヤ教とヘブル語を勉強し、正式な改宗へ向けての手続きを始めます。改宗手続きが済み次第、国籍を中国籍からイスラエル籍に移籍するそうです。

イスラエルへアリヤー(帰還)する人達は、世界各地からいますが、中国からのアリヤーは珍しいケースです。中国・開封に定住したユダヤ人の祖先は、古代ペルシャ王国時代の商人達で、彼等は10世紀から12世紀にかけ、シルクロードを経て中国へやって来たと考えられています。今日その子孫は中国に1000人はいると言われています。“開封ユダヤ人”の民族史は150年前で止まっており、その後彼等は完全に漢民族と同化したと思われてきました。彼等の歴史は今、150年のブランクを経て新しく塗り替えられています。 

祈り)アリヤーするユダヤ人の多くは、イスラエルの現状を見て良くも悪くも衝撃を受けます。イスラエル国民としての社会的アイデンティティーを確立するのは宗教的なそれより容易ではないからです。彼等の中にある「ユダヤ人として生きる(または生きたいという)使命」が唯一の励ましとなっていくと思われます。一度中国人と同化してしまった彼等にとり、イスラエル人と同化する(または民族性を取り戻す)このプロセスが喜びと祝福に転じていきますように。

参考記事)10月22日付、Ynet新聞
中国系ユダヤ人に興味のある方は:ウィキペディア:「開封のユダヤ人
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2009年7月15日水曜日

アフガニスタン:去り行くユダヤ人と残されたシナゴーグ

アフガニスタン西部にあるヘラート市には古いシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)があります(写真左)。最近このシナゴーグはリフォームされ様変わりしました。アフガニスタンのユダヤ人地区はここ数十年で地域から見捨てられ荒んだ場所と化していました。しかし一方で、ヘラート市をはじめアフガニスタン国内のシナゴーグは最近改装されるようになりました。これらユダヤ人地区で今何が起きているのでしょうか。今回のストーリーは、アフガニスタン系ユダヤ人が去り、行き場を失ったシナゴーグとユダヤ人共同墓地の「今」に焦点を当ててみることにします。


20世紀初期、アフガニスタン国内にはユダヤ人が4万人いました。その数は第二次世界大戦後5千人に減り、1978年から約10年間にわたるソ連・アフガン戦争で、なんと300人にまで減りました。度重なる試練でアフガン系ユダヤ人は危険にさらされ、亡命する以外に生きる道はありませんでした。20世紀初期、ここヘラート市には280世帯規模のユダヤ人コミュニティーが存在しました。この町のユダヤ人達も1948年のイスラエル建国を機に次から次へとアフガニスタンを離れて行きました。その多くは現在イスラエルや米国に在住しています。


現在国内に残るユダヤ人はただ一人。およそ2500年続いたアフガニスタンのユダヤ人の歴史は終焉を迎えています。その残された孤独なユダヤ人とはゼブルン・シメントーヴ氏
のことZebulon Simentov:写真2枚目ヘラート出身で、現在首都カブールのシナゴーグを管理しながら細々と暮らしています。結婚歴がありますが、彼の妻と一人娘はだいぶ前にイスラエルに帰還しました。家族のためにアリヤーしないのかという質問には「向こうに住む理由などあるか!俺はここでシナゴーグを守るだけだ。」と返すのみです。経済的には米国やイスラエルのアフガン系ユダヤ人の支援を受けつつも「その日暮らし」は続きます。

「今学校施設や地域のコミュニティーセンターとして再利用しているこの建物は、以前シナゴーグだったんですよねぇ。でも(この建物を利用する)子供たちは何も(この地域のユダヤ史を)知らないわ。まだ若すぎて理解できないのよ。」こう語るのはこの建物で学校を開校させた教育者ファテメ・ネザリー氏( Fatemeh Nezary)。



このヘラート・シナゴーグは百年の歴史を持つ石造りの建物です(写真:3枚目)。天井には、草花をモチーフにしたペルシャ文様の装飾が施されていました。しかし建物内の保存状態は悪く、復元させるのは容易ではありません。ほんの数十年前までユダヤ教徒達はここで聖書を読んでいました。しかし今はイスラム教徒の子供たちがコーランを学ぶ場所となっています。内装工事を担当した建築士のレズリー氏(Jolyon Leslie 、南アフリカ出身の非ユダヤ人)は「次世代の子供たちのためにも、ヘラートの住民は、かつてこの地域が多民族が共存する宗教的多様性の高い場所だったって覚えておかないといけないんだがね。それを覚えておくことはとても大切なんだ。」と語ります。


しかし同時に彼は自らの仕事を弁護します。「6万人の人口を抱えるヘラート市の2万人は子供たちだ。こうした歴史的建造物を保存しつつも、我々はそれらを再利用する方法を(例えば学校のために)編み出していかなきゃならないのさ。」彼の仕事は、要するにユダヤ人会堂を博物館として保存し復元させるものではなく、地域のニードに合わせて内装を美化し、新しい用途に合わせて機能させる改装工事です。それでも放置されたままより良いのかもしれません。

現在、ヘラート市内に三カ所あるシナゴーグは新たな施設へと改装されています。それらは地域の小学校やモスク(イスラム教の会堂)のために利用されるということです。


アフガニスタンのユダヤ人コミュニティーの歴史はとても古く、アッシリア帝国やバビロン帝国時代にまで遡ります。紀元前720年にイスラエル王朝[現在のパレスチナ地方北部に位置した、 イスラエル統一王国から分裂したイスラエル10部族により築かれた王朝]はアッシリアに攻め滅ぼされました。また紀元前560年にユダ王朝[現在のパレスチナ地方南部に位置した、イスラエル統一王国の分裂後の残された2部族によって守られた王朝]もバビロンに滅ぼされました。自国を失ったこれらイスラエル12部族の多くはそれぞれ西アジアに強制移住させられました。こうして離散した古代イスラエル人は、今日のイラン、イラク、そしてアフガニスタンに移り住むようになったのです。


話を最近のアフガニスタンへ戻しましょう。ここヘラート市のシナゴーグの敷地内には150年程の歴史を持つユダヤ人共同墓地(写真:4枚目)があります。実体なきユダヤ人コミュニティーの共同墓地を今日管理しているのはいったい誰でしょうか。この地域のユダヤ人達から雇われていた元管理人にアブデラジズ氏( Jalilahmed Abdelaziz 、祖父の時代から共同墓地の管理職を任されていた非ユダヤ人)がいます。彼はこう語ります。「わたしの祖父が墓を守っていた頃は、ユダヤ人達から給料をもらっていたんだよ。でも彼等が少しずついなくなり、最後のユダヤ人家族もロンドンに引っ越していったさ。それから給料はなくなった。」彼の説明ではこのユダヤ人共同墓地には約千世帯分のお墓が在るということです。


アフガニスタンは過去30年間で、度重なる戦争や内戦、イスラム教ゲリラ組織タリバンによる政治により、ユダヤ教徒への弾圧は強くなりました。無報酬の今もアブデラジズ氏は墓を守っていると言いますが、タリバンよりも一般市民のユダヤ教施設や墓地への破壊行為が厄介だと苦言を呈してもいます。

今日、アフガン系ユダヤ人はイスラエルに1万人、米国ニューヨーク市に200家族が暮らしています。殆どが20世紀半ばの亡命者とその子孫です。アフガニスタンに存在したというユダヤ人共同体の痕跡は今後も残されていくのでしょうか。少なくともシメントーヴ氏が存在する限り残されてゆくでしょう。



参考)6月24日付、ロイター通信//6月25日付、ハアレツ紙「Restoration work reveals Afghanistan's Jewish past」//ウィキペディア「アフガニスタンのユダヤ史
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2009年7月11日土曜日

09年夏のアリヤー情勢

イスラエルへのアリヤー(世界に離散するユダヤ人のイスラエル帰還)は2000年以降減り続けています。ところが2009年の夏はどういう訳か前年比で15%増え、北米、フランス、英国、南アフリカ等の地域のおよそ5千人のユダヤ人がアリヤーしてきます。この内約2千人が米国とカナダから、200人がフランスと英国から、130人が南アフリカから、又100人が南米からイスラエルへやってきます。


昨年度イスラエルへ帰還したユダヤ人の数は1万6500人でした。この数は1990年代に旧ソビエト連邦からアリヤーしてきた大勢のロシア系ユダヤ人(写真)以降、最低の数字です。
さて世界に離散しているユダヤ人たちの今年の動きはどうなるか。世界情勢を見ながら、見守りたい動きです。



*アリヤーを聖書的に読む:ユダヤ人の聖書タナフ(キリスト教の旧約聖書に相当するが、各書物の配列は異なる)の最後の書の最後の節、つまり歴代誌II36章23節はアリヤーを促す言葉で綴じられています。「(当時世界を支配していたペルシャ王クロスが中東全域に離散したユダヤ人に告げた言葉)あなたがた、すべて主ヤハウェの民に属する者はだれでも、その神、主ヤハウェがその者と共におられるように。その者は上って行く(原語はアリヤー)ようにせよ。

写真:上から、北米からアリヤーする今日のユダヤ人家族、90年代にアリヤーしたロシア系ユダヤ人たち、イスラエル建国年と翌年アラブ諸国から迫害を受けてアリヤーしたアラブ系ユダヤ人難民(写真はイェーメン系ユダヤ人たち)

祈り)この聖書に記されているアリヤーは宗教祭に都のぼりするユダヤ人を対象にしたのではなく、むしろ他国で不自由を感じていたユダヤ人たちを対象にした言葉です。今日も同じ聖書の言葉が「救いを求めるユダヤ人たち」に語られ、無事にアリヤーできますように。
参考)7月5日付、ハアレツ紙
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2009年4月11日土曜日

メシアニック・ハガダーの解釈と非難

ペサフの月見はいかがでしたか? 

今年のペサフは15日まで続きます。

さてこのペサフに欠かせないのが、ペサフ入りした初日の晩餐です。これは世界中のユダヤ人の各家庭で持つ特別な夜の食事会で、食事をしながら家長(主に父親)がその家の女、子供たちに聖書の出エジプトの記述をつたえるというユダヤ人の伝統行事です。
その際、各家庭にばらつきがでないように、ペサフの晩餐にはハガダーという次第があります。これは若干バリエーションがあるようですが基本的には同じで、世界中のユダヤ人が共有し、この次第からユダヤ人の共通の歴史認識を読み取ることができます。

ペサフの晩餐はここ十数年でクリスチャンの間にも広まってきました。広めているのがナザレ人イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人たち(自称メシアニック・ジュー)です。彼等はこのハガダーに独自の解釈を取り入れたメシアニック・ハガダーを使用しており、今日正統派ユダヤ教徒からは非難を浴びています。特に、政治力を持つ正統派とのつながりがある「反宣教団体」は今年も大胆な反メシアニック・ジュー運動をこの時期に行いました。[参考:
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1074689.html

ところで、そもそもメシアニック・ハガダーのどこに問題点があるのでしょうか。今年問題にされているハガダーは "Passover Family Pack: Everything You Need To Enjoy a Passover Seder Dinner"という題の、米国で販売されているハガダーで、反宣教団体は「このハガダーはイエスを売り込む戦略だ」として非難しています。
そこで反宣教団体が問題にしたハガダーの主要点を抜粋して取り上げてみましょう。

4つのカップに注がれた赤ワイン:ナザレ人イエスの血 *1 
3枚のマッツォ(四角いクラッカー):イスラエルの神、 メシアなるイエス 、神の霊 *2

ハガダーの解釈にまつわるもめ事は、非ユダヤ教徒の目から見ると茶番劇かもしれません。しかしユダヤ教徒にとりキリスト教徒との境界線がこれでなくなるとしたら、ハガダーの解釈一つで今日の民族性維持の危機につながります。
けれどもキリスト教が生まれた2千年前は今日のような境界線があったのでしょうか? 新約聖書にはペサフの記述があり、ナザレ人イエスはこのペサフの時期に「ペサフ時にほふられる小羊の象徴として」死刑にされています。その死刑にされる前夜のペサフの晩餐において彼は種いれぬパンとぶどう酒を指して「わたしを覚えて、これ(ペサフ)を行いなさい」と命じています[第一コリント人への手紙11章23〜25節]。こういう訳でイエスの死後数世紀まではキリスト教の中でペサフは守られていた様です。やがてローマ帝国のキリスト教国教化にともない異教的な要素を含むイースターが入りこみ[http://www.religioustolerance.org/easter1.htm]、過ぎ越し祭などのユダヤ教的伝統はキリスト教内から排除されていきました。
ハガダーはイエスの時代よりさらに後代の産物と考えられていますが、メシアニック・ハガダーの新しい解釈は、ユダヤ教徒にもキリスト教徒にも聖書(タナフと新約聖書)をもう一度読み直す機会をもたらしてくれそうです。

キリスト教がローマ帝国の国教化で変化してしまったこと、十字軍や後の宗教改革時代のキリスト教徒たちの偽善的で反ユダヤ的な言動だけをみると、今日のユダヤ教徒のキリスト教に対する反感や恐怖心は分からないでもありません。けれども、ハガダーの解釈に関してのみ考えるならば、これはメシアニック側のユダヤ教に対する信仰上の歩みよりであって、反宣教団体が政治的に圧力をかけたとしてもメシアニック・ジューから彼等の「新しい解釈と信仰」を切り離すことは難しいでしょう。

祈り:「ですから一人一人が自分を吟味して、そのうえでパン(マッツォ)を食べ、杯(4杯のぶどう酒)を飲みなさい」(第一コリント11章28節)この言葉をペサフの時期に心に留めています。伝統としてペサフを祝っているユダヤ人にとっても、ユダヤ教との関連をまったく知らないキリスト教徒にとっても、非難し合うよりも前に、聖書を読み直す時になりますように。

*1:ペサフの晩餐では4杯ワインを飲みます。 一杯目は、羊の血を通してイスラエル人をエジプト人から選り分けた神の聖別、2杯目は、イスラエル人の解放を拒んだエジプト人への神の裁き、3杯目は、イスラエル人を奴隷から解放させた神の救い(あがない)、そして4杯目は、預言者エリヤへの敬意とメシア待望、そして神への賛美を意味します。ワインは「命の実」と考えられた葡萄を原材料にしており、ペサフの晩餐で用いる赤ワインは小羊の赤い血を象徴します。しかしメシアニック・ジューは、小羊の血に加えて、罪の家からあがなったメシア・イエスの血も象徴されていると主張します。

*2:晩餐のテーブルには、3枚重ねのマッツォが白い麻布に包まれて置いてあります。食事の最中に3枚重ねの真ん中のマッツォは取り出され、二つに割かれます。割かれた片方は布に戻し、もう片方は家長によって隠され、後で家の者たち(主に子供たち)に探してもらいます。この伝統をアフィコマン[afikoman: もともとギリシャ語に由来するこの言葉には”後からやって来るもの”という意味があります]と呼び、長い晩餐の唯一の楽しみです。メシアニック・ジューはこのアフィコマンはナザレ人イエスの姿を表していると主張します。イエスは死刑に処せられ、その亡骸は白い麻布に包まれ、墓穴に3日の間葬られ、その後よみがえったと聖書に記されていますが、その姿をアフィコマンの言葉の意味と伝統に重ねています。

注)前回とりあげた「過ぎ越し」の意味はわかりましたか? 答えは出エジプト記12章12〜14節に記されています。

おまけの写真:
もし現代版出エジプトがあったらこんな感じですかね? 

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2009年3月13日金曜日

独シェフラー社、ユダヤ人の毛髪で布を作っていた!


第2次世界大戦中、自動車部品製造工場を持つ独シェフラー社が、アウシュビッツの犠牲者の毛髪2トン(約4万人分)で繊維を作っていたことが公表されました。ポーランドのアウシュビッツ博物館で働くホロコースト歴史研究家、J. ラヘンドロ博士が明らかにしました。

戦中アウシュビッツでは130万人のユダヤ人(他に1万人のポーランド人の囚人、1万7千人のソビエトの捕虜、2万3千人のジプシーもいた)が殺されており、その多くは家畜同然の扱いを受けてガス室で大量処分されました。ガス室に入る前に、ガス室監視官はユダヤ人達の毛髪を切り落とし、その後、繊維工場が彼等の毛髪を引き取りました。そこで毛髪は衣類、毛布または工業用繊維などに加工されました(写真は加工前の毛髪。三つ編み、ヘアバンド、眼鏡がまぎれています)。


この繊維は、当時ポーランド南部にあった独シェフラー社の系列工場で発見されました。しかし現在、世界に22万人の従業員を抱える製造大手の同社は、ナチスと手を組んで「人毛繊維」の製造に関与していたことを否定しています。
[参考:1)www.ynet.co.il/english/articles/0,7340,L-3680205,00.html
    2)www.dailymail.co.uk/news/worldnews/article-1158529 

戦後ホロコースト教育は世界に浸透しました。しかし未だにナチスドイツによる「ガス室大量虐殺」を否定する人たちがいます。例えば、先月25日、アルゼンチン国から国外退去命令を受けて英国に帰国したリチャード・ウィリアムソン神父は、ガス室否定論者でした。以前神父は、スウェーデンのテレビのインタビューで「ガス室で殺されたユダヤ人は1人もいない」などと発言し、今回国外退去するまで、神父はアルゼンチンのカトリック神学校で教えていました。今カトリック界、イスラエル、そして英国やアルゼンチンでは、彼の与えた倫理上の影響が問題視されています。下の写真は有名なアウシュビッツ収容所です。

祈り)ホロコーストを認めない企業やそれをくつがえす人たちが存在します。その史実は今も語られていますが、同時にホロコースト史の改ざん勢力が表面化してきました。人間は罪と向き合うことに基本的に臆病ですが、私達一人一人が罪について問い、認め、悔い改めることができますように。

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2009年2月28日土曜日

イエメン共和国からのアリアー


先週、イエメン共和国(アラビア半島南部に位置する国)のユダヤ人家族10名が同国で高まるユダヤ人迫害を逃れるためにイスラエルに帰還(アリアー)しました。同国にはまだ230〜270名のユダヤ人が存在しており、今回帰還したベン・イスラエル氏とその家族はイエメン系ユダヤ人共同体のリーダー的存在でした。[2月20日付エルサレム・ポスト”Yemenite family makes aliya in secret operation.”]

反セム主義者によるユダヤ人への迫害や嫌がらせ行為は2009年に入り急増しています。その理由は年末年始の3週間に行われたイスラエル国防軍の”ガザ侵攻”への反発と見られています。2009年1月のヨーロッパ各地やそれ以外の全地域の被害件数は250件となっており、昨年のこの時期の3倍を記録しています。被害の多くは、世界のユダヤ人コミュニティーの建造物、墓地、会堂(シナゴーグ)への破壊行為や落書きなどです。

ユダヤ人への嫌がらせ内容と被害件数は、アンチ・デファーメーション・リーグ(Anti-Defamation League:ユダヤ名誉毀損防止連盟)が詳しく報告しています。報告では、ユダヤ人迫害が起きた場所は、オーストラリア、ベルギー、フランス、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オランダ、リトアニア、スロバニア、スペイン、スウェーデン、スイス、英国、ウクライナとヨーロッパの全域であり、加えてロシア、トルコ、又ウルグアイ、ベネズエラと南米2国での事件も報告されています。イギリスの被害件数においては過去25年で最多を記録中で、フランスにおいては、イスラム教徒とユダヤ人の人口が、他のヨーロッパ諸国よりも多いため、衝突が多く、一般人によるユダヤ人への嫌がらせも増えているようです。

[参考:1)ハアレツ紙 ”Jewish Agency: Anti-Semitic acts in Jan. 2009 triple last year's records”2)CNNレポート"Anti-Semitic attacks rising, UK watchdog reports"

祈り)迫害される世界のユダヤ人の心身の安全と救いのために祈りましょう。



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