2010年2月12日金曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その3)

アウシュビッツ収容所解放65周年記念日における、シモン・ペレス大統領の演説(その3)です。(翻訳: sunny+k)
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ユダヤ人であるがゆえに、私は兄弟姉妹たちのホロコーストの痛みを忘れて生きることはできません。


イスラエル国民であるがゆえに、私は何故もっとはやくユダヤ人の国が建国されなかったのかと悔やみます。そこが(天に召された同胞たちにとり)避難所になっていたはずだからです。


祖父であるがゆえに、私は(ナチスに殺された)150万人の子供たちと語りたいのに、言葉を失ってしまいます。この可能性に満ちた、創造性に富む多くの(150万の)人間はイスラエルの未来を大きく前進させていたはずだからです。
私は、我々ユダヤ人が邪悪なナチスの「第一の敵」とされたことを誇ります。

私は、イスラエルが復活したことを誇ります。(この国の存在そのものが)地上からユダヤ民族を抹消しようと企てたことに対する(我々の)歴史的倫理的応答なのですから。

そして私は、多くの民が、地上から狂暴性、悪、又は残忍性を根絶しようと立ち上がっていることを神に感謝しています。

ホロコーストは我々の記憶と人類の歴史から消されてはいけません。これは決してあいまいにされてはいけない、永久に残すべき教訓です。このことを通して、命の尊厳、人間の平等性、自由、そして平和が、これから先も法的に擁護されなければなりません。

ナチスドイツのユダヤ民族撲滅(勢力)を、人類の過去と未来を飲み込むブラックホールの様に考えてはいけません。健全な心と希望と命を持って立とうという時、その穴につまづいてはならないからです。

そこで私は自問自答します。ヨーロッパのユダヤ人社会はどの部分を優先して記憶に留めるべきかと。焼却炉で焼かれたあの部分の歴史の方か、それともホロコースト以前の古き良き時代の方かと。


ここに600万人の犠牲者の声を集めることができたら、それらの声は我々(残されたユダヤ人)にひたすら前を見て進むようにと言うはずです。それらの声は、

「我々の分まで生きて我々とは異なる終末を迎えてくれ。」
「我々が失ったものを取り戻し、新しい創造をしてくれ。」
とエールを送ってくれるにちがいありません。


戦前のドイツ・ユダヤ社会はドイツ国家を賢明に支えていました。文化、サイエンス、経済とドイツを代表するあらゆる面において役立つ働きをしてきました。況して、人口比率でいえば低い少数派のユダヤ人達が、全ドイツ社会に広く貢献していました。









ヨーロッパ全体を視野に入れるならば、ユダヤ人は、2千年に及ぶヨーロッパの前進を後
押ししてきたといえます。スペインの黄金時代(16〜17世紀前半)も、ドイツの黄金時代(19〜20世紀初期)においてもそうです。ヨーロッパ全域のサイエンス、テクノロジー、経済、文学、芸術などの分野において、その成長、発展、向上に、ユダヤ人達は貢献してきました。




ユダヤ人の高い貢献度の背景には、民族迫害の歴史が考えられます。(ユダヤ人達は)迫害を逃れて国から国へと移り、寄留した先で新しい言語と学問を身につけました。そのお陰で、ユダヤ人のある者は医者に、ある者は文学者に、ある者は科学者に、ある者は芸術家になったのです。特に(黄金時代の)ドイツでは多くのユダヤ人がドイツを拠点に世界的に顕著な働きをしました。


ユダヤ人居住区やゲットー出身の人間が、人並み以上のビジョンを持ち、新しい発想で社会に貢献していった、そんな現実があったことを知るだけで私は身震いしてしまいます。中産階級の出身者であれば、ユダヤ人でも大学の門をくぐる事もできました。さてここで幾人かの著名人をあげてみることにします。


アルベルト・アインシュタイン物理学者:写真左1)
ジークムント・フロイト心理学者:写真右1)
マルチン・ブーバー宗教哲学者:写真左2)
カール・マルクス経済学者:写真右2)
ヘルマン・コーヘン哲学:写真左3)
ハンナ・アーレント政治哲学:写真右3)
ハインリヒ・ハイネ詩人:写真左4)
モーシェ・メンデルスゾーン哲学者:写真右4)
ローザ、ルクセンブルク政治理論家:写真左5)
ヴァルター・ラーテナウ実業家:写真右5)
シュテファン・ツヴァイク作家:写真左6)、そして
ヴァルター・ベンヤミン文芸評論家:写真右6)



この一様でない面々に共通するものはなんでしょうか。あるとすれば、思想界に影響を与えたという点とモダニズム(近代化)に貢献したという点でしょう。彼等はそろっておのおのの独自性を活かしてヨーロッパをはじめ世界中の人々を啓蒙してきました。





(古き良き時代が過ぎるたびに)我々に残る教訓が「ネバー・アゲイン!(二度と繰り返すな)」という決まり文句(=教訓のことば)です。いわば今日、民族差別思想に対してネバー・アゲイン! 民族優越主義に対してネバー・アゲイン! 神否定とホロコースト否定、人権法の無視、また虐殺に対してネバー・アゲイン! 冷血な独裁者、民族虐殺を推進する扇動政治家に対してネバー・アゲイン! そう我々は声を大にするのです。


特定の人種や民族を抹殺せんとして世界を脅かす動きは、正気とは思えない精神を持って不真実を語る、そういう者が大量殺人兵器を保有しはじめた時、疑いなく見えてきます。


第2のホロコーストを引き起こさないために、我々は子供たちにもっと教育しなければなりません。民族間の平和な関係づくりを目指して他者を敬うようにと教えていかねばなりません。お互いの文化と、人類共通の価値観を大切にしようではありませんか。常に新しい気持ちで十戒と向き合おうとする精神を大切にしようではありませんか。
今は、顕微鏡や望遠鏡で覗けばこの世の不思議が科学的に見えてしまう時代です。今は、人間の心身に効く新しい薬が開発される時代です。飢える者には食料を、渇く者には水を、窒息しそうな者には新鮮な空気を、そして全人類とは知恵を分かち合う、そういう時代に生きているのです。

(その4に続く)
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2010年2月9日火曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その2)

前回の続きです。アウシュビッツ収容所解放65周年記念日における、シモン・ペレス大統領の演説です。
(翻訳: sunny+k)
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ドイツ各地の選ばれた閣僚と代表者の皆様を前に、今私は、ユダヤ人の国、ホロコーストを生き延びた者の安住の地、イスラエル国を代表してここに立っています。

私は自身が高踏的で逆に落とされやすい微妙な立場に立たされた者であるが故に、身を低くして申し上げます。(同様の重要な役職につく)皆様も今私の云わんとしている事を理解し、私の立場を考慮して下さることをひたすらにお願いします。

私の目に今でも映し出される心の光景があります。それは私が深く尊敬する人物ラビ・ツビィ・メルツァー、ハンサムで威厳に満ちた私の祖父の姿です。この私が祖父の最愛の孫とされていたことは、本当に幸せでした。

祖父は私の人生の導き手であり助言者でした。そしてこの者にトーラーを教えてくれた人物でした。彼は白い髭と黒い眉毛が印象的で、私の故郷ベラルーシのヴィシェンニェフ市のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)でラビをしていました。私の目には、祈る会衆に紛れ込み、タリート(祈祷用のショール:写真)で顔を覆う祖父の姿が常に映ります。その祖父のタリートの中に私も入り込み、彼の落ち着いた深みのある声に耳を傾けると、それだけで心気充実してくるのです。あのヨムキップールに吟唱する祖父のコル・ニドレイ*)は私の耳に今もこだましています。我々の信仰では天地万物の創造主が人の生死の一瞬一瞬を定めている、と私は(祖父の声を聴きながら)そこで信じとるのです。(*ユダヤ教の信仰に回帰する際にヨムキップールで捧げる詩で、その内容は、今まで果たせなかった人間的誓いを神に許して頂くというもの。

祖父は、当時11歳で駅のホームに立つ私を見送ってくれました。あの時の光景は忘れられません。あの日あの場所で私はイスラエルの地へ旅立ったのですから。祖父は私を強く抱きしめ、こう言いました。「我が子よ、常にユダヤ人として生きるんだぞ。」それが祖父の口から聞く最後の言葉となりました。そして汽笛は鳴り、列車は動き出したのです。私は祖父の姿が視界から消え去るその間、ただ彼だけを見つめていました。あれが最後の別れとなりました。

間もなくナチス党がヴィシェンニェフの街に押し寄せ、祖父のシナゴーグの会衆全員が強制連行されました。祖父と彼の家族は行列の先頭に立たされ、私がよく入り込んだあのタリートで祖父は自身の体を覆いました。シナゴーグは完全に閉ざされ、木造建だったそこには火がつけられると、ほどなくして街の全ユダヤ人地区は灰と化していきました。この街で生き延びたユダヤ人はゼロです。

痛みをもってホロコーストと向き合うということは、人間の魂の最も深い部分に問い続けることです:
内在する悪は人間のどの部分の深みに横たわっているのか。
高度の文明と知恵を授かった民族(ゲルマン人のこと)はなにゆえに見過ごしたのか。 
あの残虐性をいかに分類したらよいのか。
「モラルの羅針盤」(カトリックのこと?)はいつまで「沈黙」を指し続けるのか。 
何故、人は理性的な熟慮を欠いてしまうのか。 
何故、ある民族が他の民族より優秀だったり劣等だったりするのか。
又、未解決の最終問題といえば「なぜナチスはユダヤ人の存在を最大に恐れ、危険視したのか?」でしょう。

なにが彼等を、あらゆる資源と巨財を投じてまで「ユダヤ人殺し」へと駆り立てていったのですか? 自分達の敗北が地上線に見えてきても、彼等の(ユダヤ人殺しという)ねらいが挫かれず続いたのは何故ですか?

“ユダヤパワー”なるものが(新聖ローマ帝国から)千年も続くドイツ帝国の繁栄に歯止めをかける危険性があったというのですか? 受難の民が、圧制者の革長靴で蹴られながら、殺人マシーンと化したナチス党にどうして逆らえるのですか。 ヨーロッパ・ユダヤ人社会に、いくつの軍事組織が在って、処分されたたというのですか? 戦車や戦闘機や銃は見つかりましたか?

まるで狂犬病にかかったようにむき出した嫌悪を、「反セム主義」という言葉で単純に表現することなどできません。良く使われる表現ですが。この一言では、ナチス政権のあの燃えるような感情と残忍性を含んだ動物的欲求、そしてユダヤ人撲滅への病的に執拗な行動を到底説明することはできません。

戦争の目的はヨーロッパの征服で、ユダヤ人の歴史(記録)を一掃するためではなかったはずです。ところがヒットラー政権にとり「我々ユダヤ人」は、軍事的ではなかったにせよ道徳的脅威と見なされたのです。全ての人間は神の御姿(かたち)に似せて創られ、万人は神の前に等しい、という我々の信仰は反対勢力に否定されたのです。

もし、ひとりのユダヤ人が自分自身を守りきれなかったとしても、その男が、それでも神の名を聖別し、神の要求を満たして人生を全うすることは可能です。なぜならユダヤ民族が誕生したその日以来、我々は如何なる時にも如何なる場所でも「汝、殺すなかれ! 汝、愛せよ、その隣人はあなたのようだ! 汝、平和を追い求めよ!」と神の戒めを受けてきたからです。これらの戒めを疑わずに実践したこの単純な男というのは、実は私が愛し尊敬してやまない私の祖父のことです。
ナチスは祖父を地獄へ送ろうとしました。祖父とその兄弟たちは生きたまま火で焼かれ、真っ黒い塊にされたからです。けれども彼等の魂まではそうはなりません。

ナチス党は我が民族を悪魔に見立てた宣伝映画を作りました。又、彼等の雑誌「Der Stürmer(“あらし者”の意味:写真)」を通して、我々に「寄生虫、ドブネズミ、伝染病」等とレッテルを貼り回しました。彼等は大衆が持っていた正義や慈悲という良心を取り去ろうとしたのです。

(その3に続く)
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2010年2月7日日曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その1)

以下はイスラエル国のペレス大統領が、去る1月27日にアウシュビッツ強制収容所解放65周年記念日に、ドイツ連邦議会(下院)で演説したスピーチです。ペレス大統領の齢(86歳)を考えると、渾身の力を振り絞った、歴史的スピーチだったのでは。そこで私自身の理解のためにも和訳してみることにしました。長いので数回に分けてアップします。訳文を通して彼の心痛を理解し、心底にあるものを少しでも汲み取れたらと願います。
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演説:シモン・ペレス大統領   訳:sunny + K

今、私は全ユダヤ人の故郷、イスラエル国を代表する者としてここに立っています。
私の心は、ぞっとするような過去の記憶で今も痛み、同時に私の目は、新しい未来を、憎しみから解かれた世界をはるかに見ています。
そこは「戦争」や「反ユダヤ主義」がすでに死語とされた世界です。
何千年も我々と共にあったユダヤ教の伝統に、死者を悼(いた)む時にささげるアラム語の祈りがあります。死者とは先立って逝った我々の父たちであり、母たちであり、兄姉たちです。
憶えば、優しい腕に抱かれた幼子らはそれぞれ母達の腕からもぎ取られ、ガス室へ押し込まれていきました。そのガス室からは煙が上がり、父たちは我が子のおぞましい最後をそこに見、恐れおののきました。この追悼の祈りを誰も捧げることさえできませんでした。
ですからここに列席された皆様、この機会に、私はこの祈りをささげることにします。600万人の灰となったユダヤ人ひとり一人を心にとめながら。
私の友、ドイツを代表する皆様、指導者の皆様、聴いて下さい。今、ホロコースの生存者たちはイスラエル国で、世界の各地で、自分たちの最後を迎え、次々にこの世を旅立っています。その生存者数は日に日に減少しています。
時を同じくし、(ユダヤ人)撲滅という地上で最も憎むべき業に関与した者たちが、未だドイツとヨーロッパをはじめとする世界各地に(なんの裁きをうけないまま)生存しているのです。
私の願いは、こうした人間が正しい裁きを受けるために、皆様が義なる労を惜しまないで欲しいということです。
これは我々の目に「復讐」として写るものではありません。これは戒めとされるべきです。今日の世代の若者はどこに住んでいても「ゆるされた環境」の中にいます。だからこそ、彼等にとりこれは絶対に忘れてならないものにしなければなりません。つまり過去に何が起きたかを知り、平和と和解と愛以外にとって代わる手段がないように、つまり如何なる手段を用いてもその同じ過去が繰り返されないように、そのための戒めとなるべきです。

今日、世界ホロコースト記念日は、65年を経て、ようやく日の光を浴びる様になりました。(つまり、第二次世界大戦の)6年間の我が民族撲滅の隠された史実に太陽が差し込み、全ては明るみに出ているからです。
この日、アウシュビッツービルケナウ強制収容所(写真)の大地に、大量の血が流され(遺)灰がまかれたことを覚え、この焼却炉跡地からは(追悼の)煙が今後も昇り続けることでしょう。

しかし今、この町の駅のプラットホームは黙しています。「 "selection ramp"(死の門からの鉄道レール:写真右)」には人ひとりいません。大量殺戮の場となったこの広大な地には、騙されたように静かな空気のみが漂っています。
1945年1月27日、世界はこの事実に目覚めました。遅すぎましたが。つまり600万人のユダヤ人が消滅した事実にです。
ただ我々だけが、凍結した地面の下に深く押し込まれた細き声に、耳をとめています。その声は耳をつんざく(死者たちの)悲鳴でしたが、今は受動的で静かな天国へとあげられていきました。
今日は死者を追悼するだけの日ではありません。想像を絶する残虐行為に直面し、人間が自らの良心を痛める日です。また人類が(正義の)行動を先延ばししたことによって生じた悲劇を心に刻む日です。

それは、世界で燃え上がる炎にあまりにも不注意だった点、殺人マシーンと化した化け物を何日も何年も野放しにしてしまった点から学ぶ、そういう日です。
(解放日からちょうど)三年前の1942年1月20日、ここからそう遠くない美しい湖畔にあるヴァンゼーの別荘(写真)で、ラインハルト・ハイドリヒ(ユダヤ人大量殺害を工業的に行うことを推進した男)率いるナチス高官と幹部の集団はヴァンゼー会議を開き、「ユダヤ人問題における最終的解決」(=ユダヤ人虐殺政策)を決定しました。
この文書(ユダヤ人問題の最終的解決)は、アドルフ・アイヒマンが作成し、それにより人種は特定され(ヨーロッパ各地のユダヤ人がここポーランドの)絶滅収容所に集められ、殺されていきました。
全ヨーロッパのユダヤ人がです。ソビエト連邦、ウクライナ、ポーランド在住の300万人を初め、小国アルバニアに居たわずかユダヤ人200人までも狙われました。延べ1100万人のユダヤ人が(大量虐殺の)対象になったのです。
ナチス党は手抜きなき仕事(殺戮)をやりました。ヴァンゼーからアウシュビッツに至るまで、ガス室から焼却炉に至るまで、実に効果的にやったのです。
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