2009年12月31日木曜日

大晦日のイスラエル、嬉しい悲鳴をあげる:増える人口と人材

【15 Tevet, 5770】2009年を振り返り、イスラエルの人口増加に関する記事が各新聞社から出ています。イスラエル中央統計局(CBS)の去る水曜日の報告では、翌年2010年の国民人口は750万人に達するそうな! 世俗派の少子化を嘆く専門家もいますが、それでもイスラエルには子供たちが溢れています。それは65歳以上の人口が5人に1人の日本に対して、イスラエルは未だ10人に1人(9.7%)がそうで、14歳以下の子供たちは、なんと3割もいる国だからです。また外国から帰還する将来有望な若いユダヤ人も多くいるので、この国には若さと躍動感があります。


1999年からの10年間で、22万1千人のユダヤ人が故国イスラエルへ帰還しました。アリヤーに関しては去る7月に私のブログ記事「09年夏のアリヤー情勢」で取り上げましたが、今週の記事に2009年度の地域別のアリヤー統計が出ていましたので列記してみます。

・エチオピア:0人(今年は政治上の理由で帰還の道は閉ざされました。年明けの1月には250人が帰還の予定。エチオピア国内には未だ8千人以上の“アリヤー待ち”がいるようです。)

・旧ソビエト連邦(ロシア語圏):7120人(北方からの帰還民は昨年比で21%増)

・英語圏(カナダ、米国、英国、南アフリカ共和国、オーストラリア等):約5300人(昨年比で17%増)去る水曜日にも210名が北米から帰還して来ました。

・西ヨーロッパ(英国と東ヨーロッパを除く全域):2600人(昨年比で8%増)

・南米:1230人(昨年比で12%増)

その他イエーメンから47人。モロッコから25人。チュニジアから13人。レバノンから3人。 他に数名ずつ(改宗者の帰還も含めてと思いますが)香港日本モーリシャス共和国中国台湾ホンジュラス共和国マダガスカル共和国ケニヤマルティニーク島の諸国/地域から。

これらの帰還者の過半数が35歳以下の若者だそうです。以上の東西南北の国々から帰還する多くの若者は、イスラエル社会に知的財産や労働力を持ち込むので、力強い存在です。もちろん彼等はまずイスラエルについて勉強し、社会に溶け込んでいかねばなりませんが。中央統計局のまとめでは、イスラエルの人口は2003年以降1.8%ずつ増加しているとのこと。もし、この比率を日本の状況に当てはめるなら毎年220万人ずつ人口が増える計算になる訳です!

ところで日本では少子化と人口減少が問題視されていますが、その一つの対策としてイスラエルに倣って、日系人の故国帰還を認めてはいかがなものですかね? その場合当然、移民者への社会的言語的教育を考えねばなりませんが。3年連続で人口が減少中の日本国もイスラエルのような嬉しい悲鳴をあげてみたいんじゃないかなぁ‥。 

写真)New immigrants at Ben-Gurion Airport Photo: Sasson Tiram
参考)12月30日付けYnet紙: Yael Branovskyの記事/同日付けエルサレム・ポスト紙:Ruth Eglashの記事/同日付けハアレツ紙/1月1日付けYnet

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2009年12月27日日曜日

シモン・ペレス大統領:クリスマスの祝賀挨拶

個人的には今年のクリスマスも前年通り静かに流れ去っていきました。ユダヤ人の友人たちからは「ベツレヘムへ巡礼に行くのか」とか「クリスマスツリーは家に飾っているのか」などと聞かれました。が、今年も私の返答は「行きません」「飾りません」とあっけなく終わります。別にクリスマスをボイコットしているわけではありませんが。休日のないイスラエルでクリスマスに外出するのも、どこにも売っていない“ツリー”を探すのも無理だと思いませんか?


年間を通じて観光客を呼び寄せるベツレヘム市の人口は、12月24日にピークを迎え、この日、3万2千人の住む同市の人口が観光客や巡礼者で1.5倍に膨らみました。今年はクリスマス・ロックコンサートまで開催され、実に物見高い群衆で賑わったようです。市民はこの時とばかりにクリスマスを売り物にして商売に大忙し。今年はベツレヘムのホテル業界も顔がほくほくだったとか。今年もミサやコンサート、建物と装飾品、光のイルミネーション、ミサ参列者の顔ぶれ(アッバス議長とか)、そしてサンタクロースまでも宣伝材料にして、ベツレヘムの観光業界は集客率を上げるために躍起になっていました。業界としては成功したようですが、国民の多くはベツレヘムのクリスマス・フィーバーぶりにはそんなに関心がないようでした。

エルサレムは更にベツレヘムの空気とは異なります。この街ではキリスト教関係施設以外の公の場でクリスマス祭を体験することはありません。一部のユダヤ人のみがキリスト教徒たちに気を配り「ハグ・サメアフ(良い祭日を!)」と声をかけ、キリスト教徒たちもユダヤ人たちに気を配って「メリークリスマス!」とはあえて挨拶をせず、その場の空気を読みながら臨機応変に対応している感じです。イスラエル特有の宗教的断絶感を味わうには、クリスマスの時期にベツレヘムではなくエルサレムを訪れるのがベストかもしれません。

ただ例外として、今月25日に開催されたYMCAのクリスマス集会や旧市街内のルーテル教会の礼拝には多くのユダヤ人達が出席した様です。ユダヤ人女性のあるブロガーが写真付きで記事にしています。私もこうした市内の集会の一つに出席してきましたが、そこも会衆の四隅からヘブル語を話す声が聞こえてきて、エルサレムには不似合いな雰囲気に驚きました。これらのユダヤ人達はメシアニック・ジューでも正統派ユダヤ教徒でもなく、世俗派で無宗教のユダヤ人だと思います。もしくは平和主義者の左派だと思いますが。「メリークリスマス」の挨拶一つで政治的宗教的ニュアンスを帯びやすいエルサレムにも、好奇心旺盛な変わり者のユダヤ人たちがいるということです。

実際、彼等の中からキリスト教への理解を示すユダヤ人が増えれば、又その逆も増えれば、エルサレム住民とベツレヘム住民は(つまりは世界のユダヤ教徒とキリスト教徒が。またはパレスチナ市民が)お互いに行き来しやすくなるでしょう。そう考えた1人にシモン・ペレス大統領を挙げておきましょう。去る12月23日に、世界平和を願うペレス大統領はクリスマス祭を祝う世界のキリスト教徒たちに祝賀挨拶を述べました。国内テレビでではなくインターネットででしたが、その挨拶はエルサレムから世界へ向けて配信されました(視聴したければココをクリックして下さい)。挨拶の言葉は「皆様にクリスマスのお喜びを申し上げます。来る年は平和の年、兄弟愛を分かち合う年、寛い心で受け入れる年、繁栄の年になりますように。そう共に祈ろうではありませんか。」という内容で述べられていました。ガザ戦争から一年を経て2010年に向うイスラエルとしては、当然あるべき祈りでしょうが、大統領はこの祈りを世界のキリスト教徒たちと分かち合いたいということでしょうか。

祈り)雰囲気のみで「メリークリスマス」と口にする世界に、大統領が祝賀挨拶に込めた思いなどあっさり聞き流されてしまうのではないでしょうか。又エルサレムのような、気心知れた者同士だけで隠れてクリスマスを祝う世界では、政治家たちの挨拶などリップサービス程度に聞こえるのではないでしょうか。“それでも”多くの者がクリスマスに平和と希望を願ったのなら、その願いが来年も保たれていきますように。それを願った者たちが主体的に平和をつくっていけますように。

参考)12月23日付けエルサレム・ポスト紙、12月25日付けYnet紙

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2009年12月16日水曜日

ユダヤ人も知らないユダヤ人が書いたクリスマスソング集

今週は世界中あちこちの街角でクリスマスソングが流れていることでしょうね。エルサレムの街角までには流れてきませんが。。。エルサレム在住のキリスト教徒たち(*)は「マッチ売りの少女」のように、マッチ一本の小さな光で想像力をかき立てながらクリスマス気分を味っているよう見えます。(とそこまで言うと大げさでしょうか。)それでもこの時期のエルサレム在住のキリスト教徒は皆ホームシックにかかったような表情をしているんですよね。ホームはここなのにアット・ホームな場所を探しているようで‥‥。この空気は、エルサレムの外にいるキリスト教徒には分からないでしょうね。そんなマッチ売りの少女達を励ますためにクリスマスソングをお届けしましょう。ただ曲を並べるだけじゃ面白くないので、せっかくだからユダヤ人の間では話題にされない「ユダヤ人が書いたクリスマスソング」をあえて選んでお届けすることにします。曲名をクリックするとユーチューブで視聴できるようにしました。曲を聴きながら「作詞作曲したユダヤ人たちはどんな感情をこれらの曲に込めたか」などと想像してみるのも面白いかもしれません。良きクリスマスをお送り下さい。


1)真っ赤なお鼻のトナカイさん [Rudolph the Red Nosed Reindeer]:作曲家ジョニー・マークス(1909−89)は米国NY市出身のユダヤ人。彼が作曲したクリスマスソングは他にもRochin’ Around the Christmas Tree、Holly Jolly Christmas、I Heard the Bells on Christmas Day等がある。


2)ホワイトクリスマス[White Christmas]:作曲家アーヴィング・バーリン(1988−1989)はベラルーシ生まれで米国へ移民したユダヤ人。彼はアメリカ第二の国歌として知られる「God Bless America」の作詞・作曲家でもある。


3)サンタが町にやって来る[Santa Claus is Coming to Town]:作曲家ジョン・フレドリック・コーツ(1897−1985)は米国NY出身のユダヤ人。この曲はヘブン・ギルスピーとの共作


4)シルバーベルズ[Silver Bells]:作詞家レイ・エバンズ(2015−2007)は米国NY市出身のユダヤ人。作曲家ジェイ・リビングストン(1915−2001)は米国ペンシルバニア市出身のユダヤ人。


5)クリスマスを我が家で[I’ll Be Home for Christmas]:作曲家ウォルター・ケント(1911−1994)は米国のユダヤ人。


6)レット・イット・スノー[Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!]:作詞家サミー・カーン(1913−93)は米国NY市出身のユダヤ人。作曲家ジュール・スタイン(1905−1994)は英国生まれ、米国育ちのユダヤ人。


7)スレイライド[Sleigh Ride]:作詞家ミッチェル・パリシュ(1900−93)はリトアニア生まれで米国へ移民したユダヤ人。


8)ザ・クリスマスソング[The Christmas Song (Chestnuts Roasting on an Open Fire)]:作曲家メル・トーメ(1925−1999)は米国シカゴ市出身のロシア系ユダヤ人。共同作曲家ロバート・ウェルズ(1922−98)も米国のユダヤ人。


9)ドゥ・ゼイ・ノー・イッツ・クリスマス[Do They Know It’s Christmas? (Feed the World)]:作曲家ミッジ・ユーロ(1953ー )はスコットランド出身のユダヤ人。共同作曲家ボブ・ゲルドフ(1951− )はアイルランド出身で、ユダヤ人の祖父母を持つ。


10)サンタ・ベイビー[Santa Baby]:作曲家ジョアン・ジャビッツ(1928− )は米国のユダヤ人。米国の政治家ヤコブ・ジャビッツ(1904−86)の姪にあたる。


11)[It’s the Most Wonderful Time of the Year]:作曲家ジョージ・ワイル(1916−2003)は米国NY市出身のユダヤ人。


12)[There’s No Place Like Home for the Holidays]:作詞家アル・スティルマン(1906−79)は米国NY市出身のユダヤ人。


13)[Hark The Harold The Angels Sing]:作曲家フェリックス・メンデルスゾーン(1809−47)はドイツ出身のユダヤ人。後にキリスト教徒になった。この曲にまつわる歴史はココを。日本語では教会賛美歌98番、聖歌123番の「天には栄え」などの邦題で知られている。


以上です。他にもあればどなたか教えて下さい。後でここに貼付けますので。


写真)米国NY市在住のイラストレーター、ラヘル・イサドラ(Rachel Isadora)が描いた「マッチ売りの少女』

 )ここで言うキリスト教徒はごくごく普通の信者たちです。教会に仕える修道士や修道女たち、もしくはメシアニック・ジューたちはそれぞれ異なる次元でこの時期を迎えていると思うので‥‥。

参考InterfaithFamily.com: The Jews Who Wrote Christmas Songs


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2009年12月13日日曜日

ネス・ガドール・ハヤー・ポ

左の写真はハヌカ祭の駒遊びにつかう駒です。四つのそれぞれの面にヘブル語の「פ」「ה」「ג」「נ」と記されています。これは ネス・ガドール・ ハヤー・ ポ」[意味: ここに以前大きな奇跡があった]というフレーズの頭文字です。「ここ」とは今私が住むエルサレムです。エルサレム以外に住むユダヤ人は「פ」の一文字を「ש」と置き換え「“あそこ”で以前大きな奇跡があった」というフレーズで駒遊びをします。ところで、”ここ”エルサレムでかつてどのような奇跡が起きたのでしょうか? 今日はこの駒遊びのフレーズが物語るハヌカ祭の歴史に焦点を当ててみることにします。


ハヌカ祭を祝う冬期、キリスト教徒は「処女マリヤが神の霊を受けてその母胎に生命を宿した」ことを記憶します。これは偉大な奇跡です。しかしその奇跡はエルサレムで起きたものではありませんでした。ハヌカ祭の奇跡は、聖書の外典とされるマカバイ記1〜4章に詳しく記されており、時代的には中間時代(紀元前4世紀からイエス誕生の年までを指す)の出来事です。死海写本を残したとされる共同体とも時代的背景が重なります。


そこで簡単に中間時代のパレスチナ地方の政治の説明をしておきましょう。

タナク(旧約聖書)の歴史はペルシャ時代をもって終了します。その後(紀元前332年)ペルシャ軍を倒したアレキサンダー大王はパレスチナを含む西アジア全域に勢力を延ばし、それにより時代はペルシャ時代からヘレニズム時代へ移行しました。パレスチナ地方のギリシャ化は、エジプトに拠点を置くプトレマイオス朝によって紀元前198年まで、それ以降はシリアに拠点を置くセレウコス朝によって推進されました。こうして西アジア全域は言葉も文化も宗教もギリシャ化されていき、ローマ軍が紀元前70年にエルサレムを攻め落とした後も続きました。


こうして近隣諸国が代わる代わるエルサレムを支配した中間時代、ある一時期、つまりマカベヤの反乱からの約百年間だけは、ユダヤ人たちはユダヤ教徒として自由に振る舞える時期がありました。この「ハスモニア王朝」と呼ばれる百年は、すでにギリシャ化したユダヤ人が、神殿礼拝を重んじ、ヘブル語を学び直してトーラーを読み、聖書の祭り事を回復させた意義深い時代だったのです。ハヌカは、この時代を築いた「マカベヤの反乱」と関係しています。


その反乱前のパレスチナ地方に話を戻しましょう。時のセレウコス朝皇帝アンティオコスはユダヤ人が宗教的にならぬよう数々の政策を打ち出しました。当時の宗教弾圧の様子はマカバイ記に記されています。「その内容は、他国人(異邦人)の慣習に従い、聖所での焼き尽くす捧げ物、いけにえ、ぶどう酒の献げ物を中止し、安息日や祝祭日を犯し、聖所と聖なる人々を汚し、異教の祭壇、神域、像を造り、豚や不浄な動物をいけにえとして献げ、息子たちは無割礼のままにしておき、あらゆる不浄で身を汚し、自らを忌むべきものとすること、要するに律法(トーラー)を忘れ、掟をすべて変えてしまうということであった。そして王のこの命令に従わない者は死刑に処せられることになった(1章44〜50節)」。続いて「キスレブの月の25日」には、神殿内に偶像が設置され、その後2年間は艱難時代でした。多くの信者が弾圧を受け、処刑され、彼等の聖文書は燃やされていったからです。ギリシャ的自由主義に基づいた反ユダヤ政策が激化していく中、ついに、民衆の中から祭司マタテアとその息子たちハスモン一族が立ち上がりました。息子の一人、ユダ・マカベウスが軍事蜂起を行い、ユダヤ人とギリシャ人との間に戦いが始まったのです。


この戦いでユダヤ民衆は見事にシリア系ギリシャ軍を倒し、神殿を奪回しました。そして彼等は神殿をもう一度潔めるために、ゼウス神が据えられた2年前の「キスレブの月の25日」を奉献日と定め、紀元前164年の同日、聖書の神ヤハウェに神殿を再奉献しました。奇跡はこの時に起こりました。当時、神殿内の燭台用オリーブ油は一日分しか確保できなかったといいます。それでも祭司らは一日分の油で薄暗い神殿内を照らすことにしたところ、燭台の灯火は8日間も点し続けたというのです。 これが「ネス・ガドール・ハイヤー・ポ」です。


興味深いことに、死海文書の「戦いの書」には闇の民と闘う"光の民"についての物語が記されています。マカベヤの反乱と直接結びついているかは分かりませんが、「戦いの書」はこの中間時代の宗教弾圧と戦いを土台として描かれています。


祈り)今日神の宮を再建し暗闇に光を点す者は誰なのでしょうか。光が見えない状態で、光の存在を信じ、光を点すために「闇」と闘う者たち全てに勇気が与えられますように。

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2009年12月4日金曜日

ハヌカは「ユダヤ版クリスマス」?


年々派手になる世界各地のクリスマス商戦で、特に米国のクリスマス宣伝が功を奏したのか、同時期に祝うハヌカ祭も一般に知れ渡るようになりました。米国では大衆向けにハヌカを売り物にしているのか、アメリカンジューの家庭にはハヌカブッシュなるものまでが存在します(写真)。それが「ユダヤ版クリスマス」の謂れにもなっているようですが。ハヌカはクリスマスと時期的に重なる点と史実に基づいているという点では類似しています。ところが祭りの起源とされる出来事が全く違うので、とてもユダヤ版クリスマスとは言えません。ちなみに冬が到来する度に熱狂的キリスト教徒は、世界がクリスマスを中心に回っているかのように宣伝しお祝いします。けれども祝日の12月25日、クリスマスツリー、サンタクロースやトナカイ、クリスマス色の緑と赤は史実に基づいているとはいえず、こうした伝統を基にするならクリスマスは「異教の香り」を放つだけになってしまうでしょう。クリスマスの時期になるとベツレヘムにまでサンタクロースが出没する(!)時代ですから、エルサレムの住民の目にはクリスマスは不可思議なお祭りです。そんなクリスマスと同一視されるのはユダヤ教徒としては嬉しいものではないはずです。実際エルサレムで「メリークリスマス」と挨拶を交わすものなら、冷ややかな視線を浴びるだけです。そこでハヌカとクリスマスをごっちゃにしてしまう方に、ハヌカがどのようなお祭りなのか以下に記してみたいと思います


時期:キスレブ(ユダヤ暦の冬期にあたる)の25日から8日間(外典マカバイ記4章59節)。これは「キスレブ月25日」であって12月25日ではありませんよ。起源とされる出来事はナザレ人イエスの誕生より160年以上前のもの。今年は12月12日からの8日間です。その起源とされた出来事については次ぎの回で紹介することにしましょう。

名称:ハヌカ祭。別称、光の祭典(ハヌカ期間中ろうそくに火を灯すお祭りなので)。宮清めの祭り(または神殿奉献記念祭)。ちなみにクリスマスの主人公のナザレ人イエスもユダヤ人だったのでハヌカ祭をお祝いしています(新約聖書のヨハネ伝10章22節から数節)。


伝統: ハヌカ祭にも、後代に付加されて今日の伝統になったもの、例えば「駒あそび」や油揚げのお菓子や料理などもあります。ハヌカ・ドーナツ(“スフガニヤー”)は私の好物なので、作り方サイトを紹介しましょう→クックパットよみ魔女さんのレシピー」。異邦人に最も知られている伝統は、ハヌキヤ(8本の燭台)を使うことです。ハヌカ祭が始まった日の日没に、この8本ある燭台の一本目にろうそくを灯します。ハヌキヤは毎晩一本ずつ8日連続で灯されていきます。エルサレムの住宅街(特に旧市街のユダヤ人地区)を夜に歩けば、窓際に置かれたハヌキヤが、冬の寒さと暗闇を忘れさせてくれます。


聖書から考えるハヌカ:「神への奉献」を意味するハヌカ(חנוכה)という言葉は、ネヘミヤ記12章27節に使用されています。後のハヌカ祭を指す用語になる以前、この言葉には異教徒に侵されたエルサレムを再び取り戻し、神殿を神様へ奉献するという意味がありました。ハヌカ祭は「マカベア戦争に勝利し、神殿を取り戻した記念祭」ですから、この言葉の意味と合致します。同時にハヌカという名詞の語根(ח,נ,כ)を動詞に変えると「子供に教える」という意味になります。ハヌカ祭の「神の宮は常に聖書の民の中心に置かれる」というメッセージは将来を担う子供たちへ教え伝えたい内容です。エルサレムからだいぶ離れた欧米ユダヤ社会でも、クリスマスツリーを真似るだけじゃなく同じハヌカ・メッセージが語られているといいですよね。このかわいい写真はYnet紙から借用。

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