2009年5月30日土曜日

シャブオット、その2

ユダヤ宗教暦シヴァンの月6日のシャブオットの起こりを、前回は収穫祭としました。これは一側面で、宗教的ユダヤ人にとってそれ以上に大切な側面はやはりこれでしょう。


2)トーラーを授かったことの記念祭

ユダヤ教の伝統では、ペサフの出来事から7週間後に、モーセは神より律法を授かったとされています。この伝統にともない、宗教的ユダヤ人はシャブオット前夜から夜通しトーラーを読み、(エルサレム周辺の宗教的ユダヤ人なら)夜明け前に神殿の嘆きの壁に集結して礼拝をささげます(写真)。


ペサフから律法授与の一連の出来事は「なぜ神はユダヤ人をエジプトから解放したのか?」「それは律法を与えるため」というユダヤ教的問答を介して完結したストーリーになります。これはモーセに律法を与えた神が「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」と“ペサフの奇しい神”と自らを同一させたこの言葉からも明確でしょう(出エジプト記20章2節)。しかし完結したストーリーでも「律法を守ることによってどの様な結実があるのか」という問いかけにより、人間の側では新たな出発をきることになります。


この点ではシャブオットは収穫祭以上に厳粛です。ヤハウェ神から律法[トーラー:教え]を授かり、これに聴き、これに従う宗教の起源とも考えられているからです。とはいえ、今日イスラエル国内の多くのユダヤ人は、律法を厳守する正統派ではなく世俗派もしくは伝統派の人たちです。


祈り)聖書を読むとペサフと収穫の喜びには順序があり、”ペサフの救い”と”律法授与”にもまた順序があります。ペサフから7週間後、大地を祝福して収穫をもたらす神が同時に「神のおきて」を教え守らせました。救われた者に対するこの神の配慮をもっと深く知ることができますように。

写真)www.jerusalemperspective.com


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2009年5月29日金曜日

シャブオット、その1

今週28−29日(ユダヤ暦ではシヴァンの月の5日と6日)、イスラエルでは、三大宗教祭の一つ、シャブオットが祝われました。シャブオットは、「七週の祭り」や「五旬節」として知られ、キリスト教徒からは「ペンテコステ」として知られています。巷のレストランや食品店には、シャブオットにちなんだチーズなど乳製品を素材にした料理やデザート類が並びます。チーズケーキが好きな女性達には食を楽しむお祭りになりそうです。子供たちはというと、学校で「麦や果物」をモチーフにした図画工作をしたり、または聖書のルツ記を読んだりします。幼稚園では、白い服を着て、頭には花輪を乗せてドレスアップしたり、フルーツバスケットを作って果物を食べたりと、シャブオットまでに楽しい行事が続きます。こうした大衆文化と化した行事は、本来のシャブオット(聖書に記された祭り)のどの部分の要素を取り入れたものなのでしょうか。今回は2回にわたり、ペサフに続き世界で最も古いお祭りであるシャブオットの聖書的側面をご紹介しましょう。


1)春の収穫祭:

この時期は小麦の収穫の時期で、聖書( レビ記23章15、16節)では「新しく収穫したものの一部を神にささげる」農耕祭として定められました。聖書の暦では、ペサフ(過ぎ越し祭)の後の7週後です。ヘブル人にとり、ペサフは子羊の血によるあがないや海を渉るといった「救いを体験した日」、またエジプトでの何世代にもわたる奴隷制から「解放された日」です。長かった冬に春が来たのです。この宗教的体験に春の収穫が続いたというのは計り知れない神の配慮といえます。この順序が逆では、人間は収穫したものでパンを焼いてもおいしく食べれません。エジプトを脱出した数十万、数百万の者たちの中には多くの非ヘブル系異邦人たち(聖書的表現では「在留異国人」、「男女の奴隷たち」)も混ざっていました。聖書の神は、この春の収穫を彼等も含めて共に「喜びなさい」(申命記16章9−11節)と命じています。


祈り)人間は自分の楽しみのために飲み食いします。けれども心身が疲れ「何かの奴隷のような状態」での飲食はさぞつまらない体験なのでは。現代版ペサフがあるものなら、世界中の者がこれを先に体験できますように。そしてユダヤ人も異邦人も共に喜び合えたらすばらしい限りです。


写真:Ynet


質問)なぜルツ記を読むの?

シャブオットに聖書のルツ記を読むのはそもそもアシュケナジー系ユダヤ人の伝統のようです。ルツ記には、小麦の収穫に関する記述と、ルツという異邦人女性がユダヤ人である義母ナオミの信仰する神(聖書の神)を受け入れて生きる物語と、ダビデ王の系図とが記されています。ユダヤ教の伝統ではダビデはこのシャブオットの時期に生まれ、また亡くなったとも考えられています。こうして、収穫、異邦人女性の救いと選民への仲間入り、ダビデのルーツ等をテーマにするルツ記がこの時期に好んで読まれるようになったようです。

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2009年5月23日土曜日

ヨム・イェルシャライム

5月22日金曜日はヨム・イェルシャライム(エルサレム・デー)と呼ばれる祝日でした。これは宗教祭ではなく、1967年の六日戦争後エルサレムが再統一されたことを記憶する記念祭です。ユダヤ人にとっては大きな喜びの日です。というのも、1948年5月14日にイスラエルが建国され、エルサレムという町がようやくユダヤ人の町となったのもつかの間で、その夜からはじまった周辺アラブ諸国との独立戦争のゆえにエルサレムの東側はヨルダンに占領され、エルサレム旧市街も分離壁によって二分されてしまったからです。このことによりユダヤ人は彼等にとり聖域である嘆きの壁で祈ることができなくなりました。しかし六日戦争でイスラエルが勝利したことにより旧市街の東側へもユダヤ人が入ることが許され、そこで彼等の神に祈りを捧げられるようになったのです。建国日から実に19年経ってからの聖域での宗教行為が実現したのです。


今年のヨム・イェルシャライムでは、ネタニヤフ首相が「エルサレムは常に我々のものであり、今後二度と分割されることがあってはならない。」と演説しました。これはオバマ米大統領がエルサレムに(ダビデの星ではなく)国連の旗を掲げようと政治的圧力をかけていることを意識した対抗演説とも受け取れるものです。一方、イスラエル首相に反発するアラブ系市民は市内でデモを起こしました。

祈り)エルサレムが将来どのような町になるのか、聖書のことばを記しておきます。祈りの矛先をどこに向けたらよいものか。例えば聖書のこの言葉が「エルサレムの平和を願う者たち」の祈りを導いて下さるように。

「あなた(エルサレム)を苦しめた者たちの子らは、
 身をかがめてあなた(エルサレム)のところに来、
 あなた(エルサレム)を侮った者どもはみな、
 あなた(エルサレム)の足もとにひれ伏し、
 あなた(エルサレム)を、主ヤハウェの町、
 イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。
 あなた(エルサレム)は捨てられ、
 憎まれ、
 通り過ぎる人もなかったが、
 わたし(聖書の神)はあなた(エルサレム)を永遠の誇り、
 代々の喜びの町に変える。」
 イザヤ書60章14〜15節

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2009年5月21日木曜日

2009年度ユーロビジョン、イスラエル代表の歌手


ユーロビジョンというのをご存知でしょうか。これはヨーロッパ諸国の代表歌手が「歌くらべ」をする音楽コンテストで、ヨーロッパの音楽界では半世紀も続いている一大音楽イベントです。ヨーロッパ諸国以外ではイスラエルとモロッコもこれに参加しており、歌を愛するイスラエルでも、毎年誰が代表になるかと注目されています。今年は5月12〜16日の4日間にわたりロシアのモスクワで開催され、のべ42カ国を代表する歌手たちが歌くらべをしました。

さて2009年を代表する今年、イスラエルを代表したのは、異色の女性デュオ、Noa & Mira Awad です。ノアさんは、褐色のユダヤ人(ユダヤ教徒)で、ミラ・アワッドさんは白人(のような)パレスチナ人(キリスト教徒)です。プロフィールでは、ノアさんがテルアビブ出身でアメリカ育ち。一方、ミラさんは、ガリラヤ地方出身でクリスチャン・アラブの父とブルガリヤ出身の母を持つハーフということです。写真参照。

一見すると、ノアさんがパレスチナ人で、ミラさんがユダヤ人の様に見えます。民族的にも宗教的にも二人はミスマッチのように大衆の目に写るためか、このコンテストに出るにあたり、イスラエル国内のアラブ系市民やパレスチナ系団体からの非難を受けてきた様です。それでも二人の友情は変わらず、むしろ小さな迫害の数々を経て、結束は固くなり、二人はコンテストでアラブ語、ヘブル語、英語を交えて堂々と歌い、セミ・ファイナルまで進みました。

歌のタイトルはThere Must Be Another Way」(平和の道は他にあるはず:意訳)です。政治の上ではこの二人の間には大きな隔たりがあるのでしょうが、二人はその重圧を受けつつも、お互いの存在や生き方を尊重し合い、ふたりの友情を通して、この歌を歌いあげています。YouTubeで、二人の歌声を視聴したい方はここをクリック

祈り)彼女たちのように、アラブ人を愛すユダヤ人、ユダヤ人を敬うアラブ人が多少でもイスラエルにいることは、この国の行く末に希望を与えます。しかしこれらの人たちが「異色」とされる時代がやがて終わるといいのに、、と祈ります。
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2009年5月20日水曜日

0.5平方ミリの超小型旧約聖書

去る5月11日、ペレス大統領はイスラエルを訪問したローマ教皇ベネディクト16世に、0.5平方ミリの超小型旧約聖書を贈呈しました。説明抜きにまずは写真をご覧下さい。もともとヘブル語の聖書は日本語の聖書よりもページ数はかなり少ないものの、30万単語がこの砂粒一つのバイブルチップに記録されているとか。これはテクニオン大学が、自慢のナノテクノロジーで作成したものです。イスラエルが、神学者である教皇に「ヘブル語の聖書を贈呈した」というのはこういうカタチ(!)だった様です。


2枚目の写真は、2日後ベツレヘムを訪問した教皇にアラブ系クリスチャンらが渡した聖書です。聖書をアラブ語で丁寧に書いているのはパレスチナ人のカリグラファー、ヤッセル・アブ・セイメー氏です。


ドイツ出身のローマ教皇は、前身は聖書神学者だったということで、科学者でも芸術家でもありません。さて教皇は、非実用的なこの2冊(?)の聖書のどちらを好んだのでしょうか。 参考資料







Palestinian calligrapher Yasser Abu Saymeh

2009年5月16日土曜日

ローマ教皇ベネディクト16世の「ヤドバシェム演説」


ローマ教皇ベネディクト16世の5日に及んだ「平和の巡礼」(イスラエル訪問)が昨日無事終了しました。

この5日間の滞在でエルサレム市民に最も注目された教皇の演説はヤド・バシェム(ホロコースト記念博物館)でのそれでした。カトリック信者やパレスチナ市民にとっては異なる場面での教皇の言葉が今週のニュース記事で取り上げられました。しかしユダヤ人の間では、特にホロコースト生存者たちの間でですが、この教皇がドイツ出身者で、第2次世界大戦中に青年時代を迎え、1944年まで「ヒットラー・ユース・キャンプ」に所属していたという経歴が、教皇自身の口を介してどのような演説になるのかと前日まで騒がれていました。

そのヤドバシェムでの演説はここをお読み下さい。この演説に対して、翌日のイスラエル各新聞社は一面にその内容を取り上げ、評価を下しました。
一例として5月11日付けのイスラエル・ハヨム紙の一面をご覧下さい(下)。


写真左)表の一面、黒面白抜きの見出し(下部):「教皇、謝罪のことばなし!」
写真右)中面、青面白抜きの見出し:「ヤドバシェム:“我々はがっかりした”」

教皇の演説のどの内容に彼等はがっかりしたのでしょうか。

ヤドバシェム委員会の責任者ラビ・メイヤー・ラウ氏(彼自身もポーランド出身のホロコーストの生存者)は次ぎのような点をあげて評価しました。

1)教皇はバチカン教皇庁とカトリック教会を代表する言葉を丁寧に述べたが、教皇個人のホロコーストに対する姿勢や考えを読み取ることが難しかった。
2)ホロコーストを二度と繰り返してはならないとは述べたが、ホロコーストへの言及が曖昧にされた。例えば、犠牲者の数をはっきり「6百万」といわない。ユダヤ人は殺された("were killed")と述べる程度で、虐殺された("were murdered")という明確な表現は避けられた。平和を願ったものの、ホロコーストを引き起こした人間の悪とナチスの存在には触れなかった。
3)前教皇ヨハネ・パウロ二世の2000年のイスラエル訪問時と比較して、今回の教皇は人格的にも個人的にもイスラエル国民へのアピール度が足りなかった。

教皇は今回エルサレム以外にもベツレヘムやナザレというイエス・キリストという人物にゆかりのある場所をも訪れました。そこでは特別な礼拝式が開かれ、教皇は神々しい存在として聖地巡礼者や教皇崇拝者の目に留りました。しかしヤドバシェムでは、教皇といえども1人の人間として神と人の目に留ったようです。そしてヤドバシェムでの演説では、教皇のホロコーストに対する個人的見解が抜けていたためか、(カトリック信者たちから)神のように崇められても“神のことば”ではない、単に“教皇庁のことば”だった、と一般のユダヤ人達には受け止められました。教皇は教皇庁の指図や監視を受けて演説したにすぎない、とすでに結論を出している市民もいました。実際そうだったのかもしれません。そうでなければ訪問後にそれを打ち消すような、よりパーソナルな感想と謝意がイスラエル国民に寄せられることでしょう。

祈り)政界や宗教界のトップらは、教皇のように世界中どこへ行っても熱狂的なサポーター達に囲まれています。1人の人間として立つ機会などあるのでしょうか。そういう彼等1人ひとりが、所属団体の立場や主張や伝統を通すまえに(つまりは政治家や宗教家の和平政策や和平哲学を通すまえに)、1人の人間として神の目に立つことができますように。そして当事者も彼らを取り巻く市民も何をもって誠意ある者、人格ある者とされるのか、そんな事を問い直したり、論じる機会を増していけますように。

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2009年5月14日木曜日

バチカン市国、国旗の図柄はどういう意味?


今週5月11日から5日間にかけて、ローマ教皇ベネディクトがイスラエルと西岸地区を訪問しています。一般のユダヤ人たちの中ではカトリックとプロテスタントを混同している人たちが多くいるようなので、簡単な説明を彼等のためにしましょう。


ローマ・カトリックの総本山は、今日のイタリアのローマ市内にある世界最小の独立国、バチカン市国(1929年成立)にあります。ここに世界宗教化したカトリック教会を統治する、ローマ教皇の家があります。ローマを東京に似せるとしたら、バチカン市国は皇居の様です。


バチカンには、イエスの12弟子の1人ペテロが埋葬されたという伝承があり、2世紀後半には彼を記念した廊がすでに建てられていた様です。その跡地に、西暦326A.D.頃コンスタンティヌス帝が教会堂を建て、時代とともに増築されていきました。今日のバチカン国の中心にある聖ピエトロ大聖堂がそれです。原始教会時代(ナザレ人イエスの死後から新約聖書がまとめられていった2世紀半頃まで)キリスト教界の精神的中心はエルサレムでした。しかしペテロが殉死したと思われるその場所に宮殿を建てたことにより、ローマはエルサレムに代わり、全キリスト教会に最も影響を及ぼす場所と化し、今日の中心的地位を確立していきました。


教皇の今日の世界的権威の背景には、教皇が「イエスの弟子ペテロの直系の霊的継承者である」というバチカンの主張があります。そもそも金銀に包まれたバチカンの教皇が、「人間を捕る漁師として、それも“ユダヤ人宣教”に生涯をかけた素朴な漁師ペテロ(ガラテヤ人への手紙2章7節)」を信仰の祖としているとは驚きです。非カトリック系キリスト教徒たちは、何をもってペテロの信仰を霊的に継承しているか、この点を大きく疑問視しています。


カトリックの主張は聖書に基づいています。( )内は彼等の解釈です。


シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「‥‥このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩(ペテロが殉死する場所)の上にわたしの教会(ローマ・カトリック教会)を建てます。」(マタイによる福音書16章16〜18節)


一方、プロテスタント教会の主張はこうです。キリストの教会は、ある特定の人物(例えば、ペテロという聖人化した一人の男)の上に建設されるのではなく、神の啓示を受けて救われる全ての者の信仰告白(彼等の解釈では、これが岩)の上に建てられていくものです。


バチカン市国の国旗は、左半分が黄金色で、右側に金と銀の鍵があります(写真参照)。この鍵は、聖書の同箇所の19節にイエスがペテロに対して「わたしは、あなたに天の御国の鍵を与えます。」と言われた時の“鍵”を象徴しています。この聖書箇所のバチカンの理解は、現在教皇がこの天国の鍵を預かっており、このお方を通して、信じる者に御国が開かれていくというものです。


この解釈が納得いくものかどうかは、それぞれの判断にゆだねることにします。ただ、教皇のイスラエル訪問は政治的な目的ではなく「平和の使者」として訪ねることを公式表明しています。一方で、イスラエル国内のキリスト教にゆかりのある場所のあちこちをバチカン市国の所有地にしたいという要請を出す訪問でもある様です。こうした教皇の言動は、バチカンとイスラエルのどちらを優先にした訪問なのか、教皇の「平和メッセージ」に政治の臭いがします。

2009年5月9日土曜日

ジーザス系シオニスト?


一般的にシオニストというと政治色の濃いユダヤ系ナショナリストを連想します。アラブ系指導者達による定義づけばかりがニュースで頻繁に流されるためでしょうか。けれども現代シオニズムは政治/社会派、現代派、民衆派に分類できますし、聖書時代から今日にいたるシオニズムを考えても、宗教的シオニズムとして一つに分類されはしても、その主張グループも内容も様々です。又ユダヤ人以外でも、キリスト教徒たちがユダヤ人たちの「約束の地への帰還」を支援すれば、これら支援者たちをキリスト教シオニストと呼びます。そして存在としては目立っていませんが、イスラム教徒の中にもこうした支援者がいます。さて、こうした様々なサブグループが存在するシオニズムの中に、最近注目を浴びる新しいシオニストがいるので、ここで紹介します。


そのグループは、——エルサレムポスト紙の呼称では——ジーザス系シオニストです。彼等はキリスト教シオニストの様な異邦人団体ではなく、ナザレ人イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人(総称:メシアニック・ジュー)たちです。去る4月30日にエルサレム・ポスト紙は、メシアニック・ジューの中でも、イスラエル国籍と強い愛国心を持つユダヤ人シオニスト・グループを「ジーザス系シオニスト」として報道しました。同紙の記事[英題:Religious Affairs: Jesus's Zionists]から、このグループに所属する兵士達の特徴を列記してみましょう。

1)イスラエル国内のメシアニック・ジューの青年たちは兵役の義務を果たす。これは兵役の義務を信仰上の理由で拒否する多くのユダヤ教正統派の青年たちとは正反対の傾向である。正統派とはいえ現代イスラエルのために兵士を送る異色の団体、オーソドックス・シオニスト類似する。それは「イスラエルのために闘うことは信仰上果たすべき義務」と考えている点において。しかしメシアニック・ジューの兵士たちが突出している点は「現代イスラエルの国益のために」というよりは「神の側で闘う」という意識の強さである。
メシアニック・ジューのアイレット・ロネン氏の証言:「我々の青年たちは個人としての信仰をしっかり持つよう奨励されています。(新約聖書とイエス・キリストへの)信仰は強いられていません。もし1人の若者が信じたなら、それは内的な理由で外的な圧力からではありません。ですから(この信仰を持つ)青年達には(他の兵士たちと異なり)強さがあります。しかし重要な点は、我々がユダヤ民族のために闘うのは、神の側で闘っているという点です。」

2)メシアニック・ジューの兵士達は評判が良い。彼等は忠実な僕で、忍耐強い。国防軍の兵士たちの間では婚前交渉が一般的な社会現象になっているが、彼等だけは異なる。

3)彼等は、新約聖書の平和主義的教えと兵役の義務を果たす行為とに矛盾点を置かない。しかしチャレンジを受けることはあるようである。
ある兵士の証言:「(イエスを救い主をして仰ぐ)信仰者として、我々が敵を愛し、敬うことは義務です。しかし我々はイスラエル国民として兵役の義務も果たします。信仰者なら、自分の言動が正しく、善いことであるかを絶えず問わねばなりません。ですから最も辛い時は、パレスチナ自治区内やボーダーパトロール中で、パレスチナ人たちを警備する時です。
「これを個人的には、我々が彼等を思いやる機会として受け取めています。そしてイエスの教えを証しする場として考えています。今日、国防軍には我々と同じ兵士(メシアニック・ジュー兵士)が200〜300名おり、国内のあちこちで活動し、良い証しを立てています。」

4)彼等は、兵役中、終末を念頭に置いている。注)この場合の終末とは、聖書信仰に立つ者の表現で、今の世界が終わりメシアが到来する時を指します。
同兵士の言葉:「この国の問題は永久にこの状態だとは考えていません。やがて ”平和の君” が到来し平和の時代が来るでしょう。その時に、全ての者がこのお方、つまりイエスがメシアだと気づくでしょう。」

————————
イスラエル国内には、メシアニック・ジューは、1万人程いる(これより多く見積もる者もいます)と考えられています。彼等はまだ社会的に認められたユダヤ人のグループではありません。”ジーザス系シオニスト” の存在が、こうしてマスコミからの取材を受けはじめたのは、彼等がイスラエル社会で無視できない存在に成長してきたからなのでしょう。

祈り)イスラエル国民がこうしたマイノリティにも目を留め始めています。彼等の信仰に裏付けられた良い業が、良い実を結びますように。
写真)ヘブル語版新約聖書(写真上で開かれているのはマタイの福音書5章9〜12節)とダビデの星

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2009年5月1日金曜日

1948年5月14日:イスラエル国が生まれたその日

イスラエル独立記念日(2009年4月29日)にハアレツ紙は、国民あてに「Haaretz Editorial from the day Israel was born」という題名の声明文を出しました。

(左の写真は1948年5月14日のイスラエル国の独立宣言時のものです。中央にいるのがイスラエル初代首相のデイビッド・ベングリオン氏。)

イスラエルという国はどのような思いや考えから建国されたのでしょうか。以下の声明文を読みながら答えを探してみては?
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「題名:Haaretz Editorial from the day Israel was born:イスラエル国が生まれたその日」
文責:ハアレツ編集部 訳:sunny+k 

今日はイスラエル新生の日です。

今日は一つの時代の終焉の日であり、今日は新時代の幕開けの日です。

今日は英国のパレスチナ地域における委任統治が終わる日です。四半世紀前、(国際連盟から委任されて始った)英国による統治は我々ユダヤ人に大きな希望を与えましたーあの時はメシア到来への期待さえ抱かせました。しかしながら、この統治期間は単に政治倫理の乱れを象徴するのみでした。

今日はあの「白い文書」が破棄されます。あの文書とは、正当性を装いながら、この地における我々ユダヤ人の歴史性と居住権利を裏切り、それらを覆い隠そうとした文書です。その文書が過去9年間においても継続して有効であったため、ナチ政府により迫害された数百万人のユダヤ人はこの地に入ることが許されず、救出されなかったのです。

今日はヘブル人[イスラエル全12部族を指す]の独立記念日です。国外追放された我々が1900年を経てこの地に戻る、蘇りの日です。

その長い年月の間に、世界は幾度も様変わりし、この土地も、ユダヤ人も様変わりしました。

けれどもユダヤ人とこの土地の絆が裂かれることはありません。我々は他の民族に例のない苦痛と制圧を受けてきましたが、今日、数千年前の古代イスラエル民族は「回復した民族」として存続します。そして我々の土地における自由と独立は、変わらず我々の生きる支えです。

今、我々は新しい段階に来ています。その段階とは周辺アラブ諸国との高まる危機的状況です。彼等アラブ人は、我々がこの地に戻ることがイスラエル民族史上、必要不可欠であるということを拒否しています。

実際、ヘブル人の独立は、ひと時の憐れみによって回復することはありませんでした。

我々[の大義]は、[国連]総会や、様々な協議会の国際法で厳しく審議を受けることはありませんでした。

ですから我々は、世界の憐れみを求めているわけではありません。また世界の裁きを恐れているわけでもありません。

しかし正義が大幅に歪められることに対し、我々はこれに抵抗し抗議することを我々の義務とします。その正義の歪曲とは、受難の民にとり弊害となった数々の問題をこの世がそのまま蓄積させたことにより生じました。この民は穏やかに暮らせる安息地を熱望していただけなのに迫害を受けたのでした。

たった一年半前の出来事[=第二次世界大戦]です。この世の権力と物質社会が我々を裁いたのは。しかし、それら全ての陰謀や企てとは裏腹に、我々は無罪にされたのです。
しかし実質的な力を持つこの世は、それ自身に正しい裁きを執行させる倫理的強さを持ち合わせてはいませんでした。そこで様々な陰謀を企てる者たちは、この世を放棄しようと試みたのです。

今日、我々は世界の判断に従い、我々がここに存在する権利を宣言します。この権利は蝕(むしば)まれることも、取り消されもしませんでした。しかし一方で我々は敵意に満ちた空気の中で、必要に迫られて、この権利を宣言しなければなりません。

我々が国際国家として他の国々と肩を並べることをたとえ望んでも、世界の大きな国々は、我々が仲間入りできるとは看做さないでしょう。

しかし、この道を進むことを除いて、今我々に開かれた道はありません。

今日、世界における我々の地位は我々自らの手で築いてきました。その様に我々の国も自らの力で手に入れていかねばなりません。その過程で我々は、世界中の権力がやがて我々の実力を認知してくれることを希望し、またそれを確信します。我々も自らの手で自らのものを守り抜く力を保有していると、世界が認めてくれることを我々は希望し、確信します。

しかしこの運動[=国家づくり]は非常に難しくなるでしょう。
最近のグシュ・エチィオン村とシャアル・ハガイで戦った武勇たちによる高度な自己犠牲が払われても、敵の威力を激減するにはまだ至りません。我々はこれを一つの教訓として教えられました。(注)

その上、我々の敵は、まだ我々に対して、その偉大な力を振るい始めてもいません。

我々の前途には数々の艱難が待ち受けています。

多数の者がすでに倒れています。そして更に多くの者が倒れるかもしれません。我々を囲む境界線は前も後ろも今後ぼやけてくるかもしれません。

更なる大きな試練が待ち受けており、我々はそれに向き合わねばなりません。

我々は、天の御使いたちにお願いして、代理戦争をしてもらうことなどできません。

我らが国家として苦闘していることには、我々一人ひとりができる最善を尽くし、その最前線で立ち向かわねばならないのです。

この日は偉大な日です。同時に、とても深刻で重々しい時です。

我々が皆、勇敢に闘えますように。犠牲を惜しむことがありませんように。栄枯盛衰の中、ゆるがない精神を持続できますように。それぞれが忠実に責任を果たせますように。そしてイスラエル人として同胞愛を抱き、我々が目指す場所へ辿り着くことができますように。

我々がもし試練と向き合えるなら、それは特権です。今日、同胞の流血と煙の柱を目の当たりにしたこの日は、我々と次ぎの時代を担う子供達に、安全保証と自由の基礎を置いた日としてやがて記憶されることでしょう。 

注)グシュ・エチィオン村(1920年代にイェーメン系ユダヤ人のグループの手によって築かれたキブツ村。ヘブロンとエルサレムの中間に位置する。しかしイスラエル建国の年、アラブ人に攻撃され消滅した。)シャアル・ハガイ(テルアビブーエルサレムを結ぶ主要道路の中間区画。1948年の独立戦争時、ここで多数のユダヤ人の死者を出した。)

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参考までにですが、この建国の精神は、超正統派のユダヤ教徒は支持していません。同様にこの国で市民権を持つパレスチナ系市民も受け入れていません。しかし国民の過半数の声を代表する声明文であることには変わりありません。(写真は1948年5月14日のテルアビブ市。イスラエル国家誕生を喜ぶ人たち。)

祈り)世界中の人が、所属する共同体(国家)を愛し、そのために生きるという精神を大切にしながらも、過激なナショナリズムに傾くことがありませんように。その精神が「神の国と神の義を求めよ」という聖書の言葉に通じる精神にむしろ傾きますように。又、ユダヤ人がユダヤ人として生きる使命があるように、異邦人も異邦人として生きることの使命をそれぞれの所属する共同体の中で確認できますように。同様に日本人も世界における日本の使命やアイデンティティーを見失うことがありませんように。

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