2009年9月21日月曜日

ユダヤ暦新年、明けましておめでとうございます


シャナ・トバ! ユダヤ暦の新年が9月19日に明けました。今年は5770年です。書きたいことがいくつかありますが、新年が明けた日から私は高熱を出し、臥せっています。というわけで、いつものニュース記事は来週以降になりそうです。


祈り)新しい一年が、すべての者にとって健やかな年となり、イスラエルにとっては平和な年となりますように。

2009年9月12日土曜日

ハマス主催の夏キャンプ:10万人の子供たちへ軍事教育

去る金曜日、米国同時多発テロ9・11から8年が経ちました。あの2001年以来、テロリズムとセキュリィティーに関する報道は毎日のように世界各地で聞くようになりました。ユダヤ人にとり、テロへの恐怖は今世紀から始ったものではありません。ユダヤ人は昔も今もテロリストを育成する地域や環境には目を見張ってきましたし、それらの地域や環境に関するニュースは、昔からセキュリティー上欠くことができない情報でした。


そこでこんなニュースです。これは先日、IDF(イスラエル国防軍)が、ガザ地区のサマーキャンプの内容を調べた結果報告です。それによると、 反ユダヤ武装組織ハマスは去る7、8月、ガザ地区で700ものキャンプを「ガザの勝利とエルサレムの栄えのため("Victory for Gaza – The Glory of Jerusalem")」とのスローガンで実施し、約10万人の子供たちをキャンプに送り込んだとのことです。同地区ではUNRWA主催のキャンプもあちこちで開かれていました。しかしハマスはこちらのキャンプに子供たちが流れないように「こっちの主催者は子供たちを堕落させる」と親達に言いふらして、子供たちを自分たちのキャンプへと誘導しました。


そのハマスは自ら企画したキャンプで、ガザの子供たちに、殉教(つまりアッラーのために自爆テロリストとなること)などを含むイスラム教過激思想を吹き込み、コーランを暗唱させ、将来のテロに備えてライフルや手榴弾の使い方を教えました(写真の説明:1番目、北ガザ地区の小学校でのハマス・キャンプ。垂れ幕にはスローガンが! 2枚目、夏のキャンプ中に実施された軍事訓練。訓練を受けているのはキャンプに参加した子供たち。)


もし、これがイスラエルのサマーキャンプなら、ユダヤ人の親や教師たちは、テルアビブの海やプールで水遊びや魚釣りをさせたり、グループ工作をさせたり、博物館や美術館主催の子供プログラムに参加させたりします。あきらかにキャンプの内容には違いがあります。こうしたサマーキャンプの内容や双方の教育方針の違いをここで論じても、キャンプ後の子供たちの言動から、なにか目立った違いを指摘できるわけではありません。けれどもキャンプの結果は5年後10年後に確実に子供たちの言動に見えてくるのです。


テロリストは大人になって突然テロリストに生まれ変わるのではなくて、子供の頃からの教育に因ります。 この点を熟知しているハマスは、サマーキャンプや子供教育に惜しみなくお金を使います。 IDFレポート によるとこれらのキャンプのためにハマスは、1500人の特殊訓練を受けたキャンプ・スタッフを送り込み、キャンプ運営費に約200万ドルを注ぎ込んだとのことです。ちなみにこのキャンプ運営費には、欧米からのガザ支援金も含まれていたそうな。。。


今、イスラエルはガザ地区の子供教育を心配しています。


参考)8月29日付け、IDFレポート(写真もここから借用)


祈り)ガザ地区の子供たちはどのような大人になるのでしょうか。もしハマスがこのままガザ地区を統治するなら、こうした教育は続きます。恐ろしいのは、子供たちが知らず知らずに、民間兵として改造されてゆくことです。このままでは子供たちは救われません。ガザの子供たちの救いのために、お祈りを!


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2009年9月6日日曜日

またもや“ダビデの町”で3700年前のカナン時代の要塞跡が見つかる!

ダビデの町は今から約3千年前に存在した、世界で最も古い町の一つです。先週(9月2日)イスラエル考古庁より「ダビデの町」で再び新しい発見があったとの発表がありました。内容は、ダビデが築いたイスラエル王国時代よりさらに700年古い、高さ8m級の巨大な要塞壁跡が、ダビデの町とキデロンの谷との間で見つかったというものです(写真)。調べでは、この石壁は3700年前のカナン人の手により建造されたもののようです。聖書でダビデがエブス人から攻めとったとされるこの場所(ダビデの町)は「シオンの要害」として記録されています。シオンの要害には、何千年も前から水を絶やしたことのない泉と自然にできた地下水路(後の紀元前700年頃に、ユダヤ人の王、ヒゼキア王によって手が加えられ、現在は“ヒゼキヤのトンネル”として知られています)が存在しました。乾燥地に水が湧いているのですから、ここは太古の昔から“特別な場所”だったようです。ユダヤ人の中にはこの特別な場所こそが、創世記に記された神の園“エデン”と考える人もいるくらいです。

今回の調査を通して、この石壁はカナン人が泉を敵から守るためのもので、この地はカナン人の要塞だったということが分かりました。調査隊ディレクターはロニー・レイヒ博士(Ronny Reich:ハイファ大学の教授、考古学者)。博士は8メールの壁の高さに驚いており、これは当時この地に土着したカナン人の高い文化を裏付ける発見だと述べています。詳しくは、CNNビデオで現場の様子が見れます。

ところでカナン人はいったいどのような人種だったのでしょうか? 言語学の観点では、ヘブル語と同じセム語派のようです。聖書的には、地球規模の大洪水を生き延びたノアの孫カナンを父祖に持つようですが‥‥。考古学的にはカナン人の存在はまだまだ謎めいています。

参考)9月2日付けエルサレム・ポスト紙

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2009年9月5日土曜日

“ダビデの町”で3世紀のローマ人の住居群が見つかる。

東エルサレムに位置する「ダビデの町」は、聖書の記録では“シオンの要害”として知られ、今から約三千年前に、イスラエル全部族の王とされたダビデ王がイスラエル民族の中心地として選び取った所です(写真)。聖書サムエル記下5章6〜9節の記録では、このシオンの要害をエブス人から攻め取った、とあります。ダビデの息子、ソロモンの時代に、この場所とその北の丘に王宮と神殿が据えられ、正式にイスラエルの都と成りました。このダビデの町、もしくは「シオンの要害」は今日、世界で最も考古学上重視され、ここ70年に渡っては発掘調査が続けられている所です。


先月17日、イスラエル考古庁は、この場所で3世紀のローマ人の住居遺跡が発見されたと発表しました(写真2枚目)。調べでは、この遺跡は一平方キロメールに及ぶ、二階建て住居群だったようで、イスラエル考古庁によって現在調査が進められています。調査隊ディレクターは、ベン・アミ博士(Dr. Doron Ben-Ami)。博士は、これらの建造物は4世紀(363 A.D.) にイスラエル全土を襲った大地震で崩壊し、ローマン・コロニーが壊滅しただろうと述べています。詳しい記事はここを

ちょこっと歴史:イスラエルの地を「パレスチナ」とする呼び方は、2〜4世紀にこの地域に居住したローマ人が聖書名(ヘブル名)を捨て、ローマ式に改名し、広めた呼び方です。これは「バル・コクバの乱」として知られる第二次ユダヤ戦争(132~135 A.D.)の後、当時ユダヤ軍を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスが、ユダヤ人を嫌い、ユダヤ色を払拭するためにこの地を「シリア・パレスチナ」と呼んだことから始ります。加えて、ハドリアヌス帝は、聖書時代からエルサレムとされてきたユダヤ人の都も、「アエリア・カピトリーナ」Aelia Capitolinaとローマ式に改名しました。こうしてイスラエルの神殿や王宮がローマ人の手により破壊され、ローマ風の建築郡がこの地一体を覆い尽くしました。

今回の遺跡で分かった事はなんでしょうか。ローマ人が、ユダヤ人の都を壊して、荘厳なローマン・コロニーを築けたとしても、363 A.D.の大地震を予知し、壊滅を防ぐことができなかったということでしょうか。聖書名エルサレムを改名し、この地のユダヤ色を消そうとしたローマ人の壊滅の様子を、1700年経った後にユダヤ人の発掘隊に調査されるとは。単なる歴史のいたずらというより、エルサレムを守る大いなる方の存在を感じます。

写真)「ダビデの町」は、Biblical Hebrew Blog から借用。参考記事)8月17日付けエルサレム・ポスト紙

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