ここひと月の間、私がエルサレム住民として気に留めないようにしていた問題が市内の駐車場問題でした。しかし抗議デモで負傷者はでる、市長は脅迫メールを受ける、世俗派の車へ石は投げられる、土曜日明けの市内ニュースはここ数週間こんな内容ばかりで、注目しないわけにはいかなくなりました。そもそも問題の発端は、エルサレム市長バルカット氏が、世俗派の要望に応え、公共駐車場(とりあえず市役所近辺の一カ所のみという限定で)の土曜運営を許可したことにあります。それに反対したのが超正統派(ヘレディー)たちです。彼等の抗議に説き伏せられ、駐車場の土曜運営は一時見送られました。これに世俗派は憤怒して抗議のデモ。そして土曜運営を再開させたところ、反対派から再び強烈な抗議と暴動が。。私は個人的にこうした抗議合戦は低次元で、すぐに治まると思っていました。
ところがしばらく続きそうな気配がするので、対立し合う世俗派と超正統派のそれぞれの主張を列記してみることにしました。
世俗派
・エルサレム市は、金曜の午後から土曜夜まで市内バスや公共駐車場の全てが運行停止、運営停止になり身動きがとれない。土曜日に家族で出かけるにも自家用車以外の手段はない。市内での自家用車での行動まで制御するつもりなのか。これでは困る。
・「安息日を守れ」と正統派は主張するが、宗教を押し付けるな。聖書のどこに安息日の駐車場運営の禁止が記されているんだ?
・エルサレムはテルアビブやハイファのように宗教を越えて「自由な町」であるべきだ。ここが民主国家イスラエルの都なら、もっと民主的にすべきだ。
・安息日に身動きが取れないなんて、観光客には絶対理解されないだろう。時代遅れだ。
・宗教は強制ではなく信仰だ。ハバクク書(聖書の預言書の一つ)2章4節にも「義人は信仰によって生きる」とあるではないか。正統派の宗教に信仰なんかない。
正統派
・エルサレムはイスラエルの中心だがロンドンやパリとは異なる。民主国家とはいえ同時にここは聖書の民ユダヤ人の国であり、エルサレムはその中心だ。エルサレムが安息日を守らなければ、今後ユダヤ人は安息日を守らなくなるだろう。
・テルアビブ市のように不夜城になり、週日と週末になんら区別のない、ゲイを歓迎する町になっては困る。
・かつてバビロンから帰省したユダヤ人(聖書のエズラ記とネヘミヤ記時代)は世俗化しきっていた。だから指導者ネヘミヤはエルサレムにこれから住むにあたり、帰省した全ての民に安息日を厳守させ、民族性を回復させたのではないか。それがなかったら今日のユダヤ人は存在しない。今のエルサレム市長は逆を行っている。
・安息日を守らない者は死んでいる。律法違反者は地獄へ行ってしまえ!(一部の過激派の訴え)
一般市民からは、土曜運営の公共駐車場を正統派区域から離したらとか、駐車場利用者を非ユダヤ人にのみ許可したらとか幾つかの解決策が提案されていますが、そう簡単にはいかない様です。異邦人の目にはたかが駐車場問題ですが、抗議背景には、エルサレムは律法が守られる都か、民主的自由の都かを論点にしています。究極的には「安息日を守るべきか否か」が論点のようです。論点を絞れたとしても、論じ合うユダヤ人達がそれぞれ攻撃的で相手の話をじっくり聞かないので、双方が納得するのに時間はかかりそうです。
参考記事:6月9日付けハアレツ紙、7月2日付けYnet紙、7月4日付けエルサレム・ポスト紙 写真)6月19日付けエルサレムポスト紙の生活面の表紙、ハラディー達の抗議行動が暴動化した様子
安息日はなぜ守るべきなのでしょうか? イエスの時代、弟子達(主にガリラヤ出身の世俗派ユダヤ人)とパリサイ派(現在の超正統派の祖)の間にも安息日の解釈を巡り論争がありました。この質問をユダヤ人にしても、彼等の間にまとまった答えがないとしても、それは今回だけではないようです。ただネヘミヤの時代にしてもイエスの時代にしても、駐車場とは無関係でしたが。
祈り)土曜運営がなぜ御法度か、安息日をなぜ守るのか―—このことを街全体で話題にして考えているのは世界中ここエルサレムだけです。これに応えられる方が(いるとしたら聖書中にしか存在しないはずですが)エルサレム住民を正しく平和に導いて下さいますように。
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2 コメント:
こんにちわSunny Kさん。
テルアビブにいる私もこの話題はきになっていました。確かにエルサレムでしか起こり得ない問題ですよね。ちょっと気になるのが超正統派の子供たちが抗議行動でみかけることです、彼らは13歳以上の子供なのか? 私にはもっと小さな年齢としかおもえず、どうしてそこにいるのか理解ができません。
どの宗教もそうですが、過激派には賛同できません。
私はこの記事の彼女の意見が好きです。
http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-3737345,00.html
超正統派たちが暴動を起こすと、ラビたちはあれは我々の青年達がやったことで大人がやることではない、とまるで大人達は関与していなかったようなことを言います。そしてラビたちはバイオレンスを説いて青年達を決して扇動しなかったと弁明します。けれども彼等の言葉ってどこまで信じたらいいのでしょうねぇ。。仮に青年たちがやったと認めるなら、それを止めるように指導はしないのかって問いたくなります。
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