2010年3月20日土曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(結び)

ながらくお待たせしました。ペレス大統領の演説の最後の部分をアップしておきます。今イスラエルは、プリム祭を経てペサフ祭(過ぎ越しの祭り)を迎えようとしています。ユダヤ民族を敵視し死へ追い込もうとする者は、ユダヤ人にとり昔も今も変わらず存在します。なぜ存在するのでしょうか。ペレス大統領の結びの言葉に力が入ります‥‥。
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[peres_1.jpg]大英帝国のパレスチナ統治が満期になる頃、ユダヤ人国家の復興と再建に尽力したデーヴィッド・ベングリオンは、イスラエル国がここに建国されると宣言しました。ところがアラブ諸国は国連の可決した第181条を全面拒否し、イスラエルに奇襲攻撃をしてきました。それはイスラエル独立宣言が読まれたちょうど数時間後の出来事でした。彼等は、ユダヤ人国家の復興を恐れて、我々に侵攻してきたのでした。
この状況下で我々は孤独でした。世界のどの国とも軍事的な連盟を結んでいなかったのですから。しかしこの場所は神が我々ユダヤ人に約束された安住の地であるとの確信に我々が立った時、(WWIIに続く)更なる逆境と向き合えたのです。もし我々がこの(第一次中東)戦争に敗北していたなら我々ユダヤ民族の存続はありえませんでした。
窮地に追い込まても、その過酷な状況下でイスラエル軍( IDF)は勝利しました。勝利を後押ししたのは、我々の歴史に刻まれた正義感とヒロイズム(ユダヤ的英雄観)でした。ホロコーストから生還したばかりなのに、ユダヤ兵士たちは再びこの戦争で戦い、ある者はこの戦争で亡くなっていきました。
非常に小さな国としてスタートしたイスラエル。この民はお互いにまだ癒えない、深い傷と向き合いながら日々を送りました。それにもかかわらずイスラエルは、寄る辺無きホロコースト生存者たちとアラブ諸国で迫害中の難民たちを次々と受け入れたのです。当時、受難民を(公式に)受け入れる国は、我々の国以外世界中どこにも在りませんでした。受難民に開かれた扉はイスラエルのみだったのです。
戦後、我々の傷口から流れる血はなかなか止まりませんでした。するとこの状況を直視し変えようとする政治家が現れました。それは我々の思いも寄らぬところから来た人物で、忘れるわけにはいきません。その人物は(あなた方)新生ドイツ連邦国から現れたのです。
偉大、且つ歴史に残るその人物は二人いました。彼等はそれぞれ自分の側から歩みより、奈落の底に落とされたユダヤ民族に対し、自らの手を差し伸べてくれました。その一人は「ドイツ民主連邦の父」コンラート・アデナウアー首相(写真2)です。もう一人は、イスラエル建国の父であり初代首相となったデイビッド・ベングリオン(写真3)です。
1951年9月27日、連邦議会の壇上でアデナウアー首相は、ナチス政権の対ユダヤ民族の戦争責任は我々ドイツにあると明言しました。彼は続いて、新生ドイツ政府は責任をもってユダヤ人市民へ損害賠償を支払い、イスラエル国に対しては復興援助をすると公約したのです。ドイツ・イスラエル政府間の真っすぐな交渉はこうして始まりました。それ以降、この相互関係を疑う反対勢力は力を発揮していません。
もちろんこの時、石を投げる者(ユダヤ人の反対者)はクネセット(イスラエル国会)にいました。彼等は死の恐怖にさらされたホロコーストの生存者たちでしたから。彼等はベングリオン側に立ちながら石を投げたのです。反発を受けてもベングリオンは、新生ドイツを信頼して受け入れ、ドイツ人と協力し合う関係を築いていきました。彼は、この政府間の決定は「我々の過去にではなく、未来に関わる大きなものだ」と説きました。これを受けてクネセットは彼に同調することにしました。
感謝なことにドイツからの賠償金が、イスラエル国経済の活性化と復興を促進させました。ちょうどこの頃、私は未だ若き青年でした。しかし機会に恵まれてベングリオンの助手として働き、その後は彼の政権下で、私は国防省長官として働きました。私が彼から学んだことがあります。それはイスラエルという国は、親が家庭を築くように国家を築き、親が子を守るように国民を守るという使命を、絶えず果たさねばならない国だという点でした。さて、この点をドイツ政府は理解し、国防のためにとイスラエル国に軍事兵器を準備してくれました。こうしてドイツ・イスラエル間の関係は奇しくも深まっていったのです。
ドイツ人とユダヤ人の友情とは、お互いの記憶からホロコーストを消し去ることではありません。むしろその逆で暗い過去の記憶と向き合う、その過程で友情は築かれていきました。二国間(二民族間)の真っすぐに向き合う関係が、明るい未来を今後も作るのです。これがティックン・オーラム(*)です。(*ユダヤ教のことばで、世界を変えるには先ず自己改造や自己改心が必要だと説く。)
深い峡谷に橋が渡されました。痛みを負い、苦しい過去と向き合いながらも橋は渡されました。この橋の基礎には、確かな倫理観が置かれています。この倫理観から(ホロコースト)記念館が建てられました。我々の不毛の地は耕され、ここは果樹園に変わっていきました。
今日、イスラエル国内の各研究機関は、命を生み出す(または命を守る)研究が盛んです。又イスラエル国防軍は我々の命を守るのに必死です。我々は民主的であるために、つまり命を守るために妥協しないのです。
我々は新生ドイツを信じています。今後も我々ユダヤ人が(反ユダヤ主義勢力に対して)再び孤軍奮闘せぬよう、生まれ変わった(あなた方)ドイツがイスラエルの側に立ち、惜しみない努力をしてくれることを信じています。 あの、相手を蔑み、殺意をむき出しにした独裁者が、次なる独裁者を眠りから覚ますことがないようにと願います。ベングリオンは、今後のドイツは、独裁体制をとったこれまでのドイツとは異なる、と予見しました。その通りでした。感謝の気持ちで一杯です。
ベングリオンと視野を分かったコンラート・アデナウアー氏に続いたのは、ヴィリー・ブラント氏(写真4)です。彼はワルシャワ市のユダヤ人ゲットー跡地で跪いて(謝罪の意を表して)献花しました。彼に続いたドイツ連邦議会と連邦参議院の皆様、加えて、ヘルムート・シュミット氏(写真5)、ヘルムート・コール氏(写真6)。皆様がドイツ人とユダヤ人の友情を育み、深めて下さったのです。続いて多くの教育機関、金融機関、文化会館、そして様々な知識人や文化人が二国間の関係回復と改善のために尽力して下さいました。
ホルスト・ケーラー大統領(写真7)、あなたはエルサレムを訪問した際、クネセットでこう言われました:「ホロコーストの責任をとることは、ドイツの存在証明に関わることです」と。あなたのお言葉を本当に嬉しく思います。
そしてアンゲラ・メルケル首相(写真8)、あなたの誠意と優しさで、あなたはすでにイスラエル国民のハートを掴んでいます。あなたは米国の上下両院で「イスラエルを攻撃することは、ドイツを攻撃することと等しいことだ」と発言されました。この時の言葉を我々は忘れません。
イスラエル建国から約60年がすでに経ちました。その間に、我々はすでに9度も近隣諸国と戦争をしています。2度の和平条約も結びました。一度目はエジプト国と二度目はヨルダン国とです。我々はかつて我々の領土と化したものを、近隣国との和平のために手放してもいます。
こうして我々は小国として留まりました。国内に天然資源もありません。我々に与えられた地は見る所不毛の地だったのです。しかし近代農業の開発と技術向上の末、我々は世界に誇れる、生産性の高い国へと生まれ変わったのです。我々は天然資源の欠乏を補うために、最新の科学技術とテクノロジーの開発に力を注いできましたが、この一点で、小国としては大きな成果をあげました。
ホルスト・ケーラー又イスラエルは、各地を追放された者達で構成されています。世界に散らされたユダヤの民の過半数は今日イスラエルにいます。又我々は民族の言語を復活させました。4千年前の言葉を今によみがえらせて話している民族はユダヤ人以外、世界のどこにも存在しません。この言語はつまり聖書の言葉であり、今日我々が使うヘブル語です。
アンゲラ・メルケルユダヤ史には、二つの大きな河が流れています。一つは、十戒から湧き出るモラルの河です。三千年も前に記された十戒は、時代に合わせて改善させる必要のない、今も欧米諸国の倫理基盤となっている掟です。もう一つは科学の河です。この流れの中では、我々はもつれた糸をほどくように、隠された秘密を解き、DNAの遺伝情報を解読するかのように、人間の目に伏せられてきた情報を解読していくのです。二つの河は我々が生き伸びるために流れています。
イスラエルはユダヤ人の国であり、同時に民主的な国です。150万人のアラブ国民もユダヤ人と同等の権利が保証されて共存しているのですから。我々は信仰や民族性の違いで人を差別すべきでないと肝に銘じているのです。こうして我々は昨今の世界的な金融危機を乗り越え経済成長を遂げています。
イスラエル文化は現代的かつ伝統的です。こういう文化圏での民主政は良い意味でも悪い意味でも威勢がよく、一時たりとも活力が衰えることはありません。どんなに戦争中でも、イスラエルはのらりくらりとはしていられなかったのですから。
イスラエルは数々の戦争に勝利しても、国家存続の危機解消に結びつく勝利とはなりませんでした。我々は土地に執着しているのではありません。我々は他の民族を支配したいとも願っていません。我々は目を閉じて、安らかに眠ることだけを心から願っているのです。我々が渇望するもの、それは他の民族と平和をつくる(平和に共存する)こと、と実に明白です。その点でいえば、イスラエルは「二国家共存の理論」に不支持ではありません。我々は数々の戦争で犠牲を払ってきました。つまり「平和をつくるために」ならばと我々は犠牲を払うことに臆する民ではありませんでした。我々は今日、パレスチナ人たちと平和をつくるためならテロリストを引き渡すことも視野に入れています。彼等パレスチナ人達がそれで独立し、成功し、自分達の手で平和な国を築くことができるなら、それを我々も当然切願します。
我々の近隣国イランの国内で、昨今多くのイラン人が独裁政治と暴力に反対し、抗議活動をしています。彼等イラン人のように、我々もまた狂信的なイラン政権には反対です。彼等がどれ程国連の支持を受けてもです。この政権は、核施設を設け、国内外のテロ活動を活性化させることに躍起になっている、破壊的で恐ろしい政権です。世界中を脅威にさらしかねない政権です。
我々はヨーロッパ(欧州連合)の人々から学びたいのです。彼等はヨーロッパに千年も続いた戦いと辛酸の歴史から学ぼうとしており、それぞれの民族の父祖達が相手に抱いた憎しみを兄弟愛に変えようと務めているからです。
彼等から学べること、それは中東にも同様のものが誕生することです。つまり各民族の父祖たちの間にあった溝や争いを子供たちに継承するのではなく、それらを平和に置き換えるのです。具体的には地域経済の活性化を促す、という新しい共通のチャレンジを持つのです。もしそれができれば、この地域の飢餓、砂漠化、病い、そしてテロを無くしていけるのではないでしょうか。
科学技術を向上させ、生活水準と暮らしの安全を確保することも必要です。そもそも戦いの神ではなく、平和の神という神観は共通しているはずです。あなた方の前に立っている人間(私)は、新しい未来を新しい歴史を作っていけると信じている者です。それもあなた方の力で、我々の力で、です。(この世に存在する)イスラエルへの脅迫は、平和をつくらせる行為でしょうか。私は、「平和」は実現可能だと信じています。今、あなた方の面前にいるこの者は、人間が人間らしく在るために世人を啓蒙し、世を明るくするために尽力を注いだ者達を父祖に持つ者で、それらが証人となっているのですから。
国際ホロコースト記念日は、交わりを持ち、沈思する日です。教育される時、希望する時です。カディッシュ(追悼の祈り)で始まったこの演説をハティクバ(イスラエル国歌)で閉じることにします。
歌詞)
いつでも我々の心の深いところに、
ユダヤ民族のネフェッシュの渇きがある。(*)
そして遠い遠い東の岸へ(**)
シオンへ、我々の目は向いている。
我々の希望は未だ失われていない。—この二千年の希望は。
それは我々がこの土地で自由の民となること。
このシオンの土地、エルサレムにおいて!


最後に、我々の抱いてきた夢を我々が抱き続けることを許して下さい。あなた方が実現させようとしている夢をどうか実現へと向けて下さい。
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※ネフェシュの聖書的原意は、のどの渇き。今日のヘブル語では魂や生命を指します。ユダヤ人の心の深いところにあるネフェシュ(のどの渇き)は、単に水を欲する渇きではなく、聖書の神に向けられた彼等の訴え、叫び、願望、祈りなどを含んだ心の渇きをも意味します。
※※東は聖なる方角です。エルサレムにある神殿の正門(通称、黄金の門)は東側に開かれています。ユダヤ人の間では昔から、メシアが到来した際、この門から神殿に入ると信じられています。メシアが神の神殿に入られた時から、メシアの平和な統治時代が始まるとも信じられています。

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2010年2月12日金曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その3)

アウシュビッツ収容所解放65周年記念日における、シモン・ペレス大統領の演説(その3)です。(翻訳: sunny+k)
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ユダヤ人であるがゆえに、私は兄弟姉妹たちのホロコーストの痛みを忘れて生きることはできません。


イスラエル国民であるがゆえに、私は何故もっとはやくユダヤ人の国が建国されなかったのかと悔やみます。そこが(天に召された同胞たちにとり)避難所になっていたはずだからです。


祖父であるがゆえに、私は(ナチスに殺された)150万人の子供たちと語りたいのに、言葉を失ってしまいます。この可能性に満ちた、創造性に富む多くの(150万の)人間はイスラエルの未来を大きく前進させていたはずだからです。
私は、我々ユダヤ人が邪悪なナチスの「第一の敵」とされたことを誇ります。

私は、イスラエルが復活したことを誇ります。(この国の存在そのものが)地上からユダヤ民族を抹消しようと企てたことに対する(我々の)歴史的倫理的応答なのですから。

そして私は、多くの民が、地上から狂暴性、悪、又は残忍性を根絶しようと立ち上がっていることを神に感謝しています。

ホロコーストは我々の記憶と人類の歴史から消されてはいけません。これは決してあいまいにされてはいけない、永久に残すべき教訓です。このことを通して、命の尊厳、人間の平等性、自由、そして平和が、これから先も法的に擁護されなければなりません。

ナチスドイツのユダヤ民族撲滅(勢力)を、人類の過去と未来を飲み込むブラックホールの様に考えてはいけません。健全な心と希望と命を持って立とうという時、その穴につまづいてはならないからです。

そこで私は自問自答します。ヨーロッパのユダヤ人社会はどの部分を優先して記憶に留めるべきかと。焼却炉で焼かれたあの部分の歴史の方か、それともホロコースト以前の古き良き時代の方かと。


ここに600万人の犠牲者の声を集めることができたら、それらの声は我々(残されたユダヤ人)にひたすら前を見て進むようにと言うはずです。それらの声は、

「我々の分まで生きて我々とは異なる終末を迎えてくれ。」
「我々が失ったものを取り戻し、新しい創造をしてくれ。」
とエールを送ってくれるにちがいありません。


戦前のドイツ・ユダヤ社会はドイツ国家を賢明に支えていました。文化、サイエンス、経済とドイツを代表するあらゆる面において役立つ働きをしてきました。況して、人口比率でいえば低い少数派のユダヤ人達が、全ドイツ社会に広く貢献していました。









ヨーロッパ全体を視野に入れるならば、ユダヤ人は、2千年に及ぶヨーロッパの前進を後
押ししてきたといえます。スペインの黄金時代(16〜17世紀前半)も、ドイツの黄金時代(19〜20世紀初期)においてもそうです。ヨーロッパ全域のサイエンス、テクノロジー、経済、文学、芸術などの分野において、その成長、発展、向上に、ユダヤ人達は貢献してきました。




ユダヤ人の高い貢献度の背景には、民族迫害の歴史が考えられます。(ユダヤ人達は)迫害を逃れて国から国へと移り、寄留した先で新しい言語と学問を身につけました。そのお陰で、ユダヤ人のある者は医者に、ある者は文学者に、ある者は科学者に、ある者は芸術家になったのです。特に(黄金時代の)ドイツでは多くのユダヤ人がドイツを拠点に世界的に顕著な働きをしました。


ユダヤ人居住区やゲットー出身の人間が、人並み以上のビジョンを持ち、新しい発想で社会に貢献していった、そんな現実があったことを知るだけで私は身震いしてしまいます。中産階級の出身者であれば、ユダヤ人でも大学の門をくぐる事もできました。さてここで幾人かの著名人をあげてみることにします。


アルベルト・アインシュタイン物理学者:写真左1)
ジークムント・フロイト心理学者:写真右1)
マルチン・ブーバー宗教哲学者:写真左2)
カール・マルクス経済学者:写真右2)
ヘルマン・コーヘン哲学:写真左3)
ハンナ・アーレント政治哲学:写真右3)
ハインリヒ・ハイネ詩人:写真左4)
モーシェ・メンデルスゾーン哲学者:写真右4)
ローザ、ルクセンブルク政治理論家:写真左5)
ヴァルター・ラーテナウ実業家:写真右5)
シュテファン・ツヴァイク作家:写真左6)、そして
ヴァルター・ベンヤミン文芸評論家:写真右6)



この一様でない面々に共通するものはなんでしょうか。あるとすれば、思想界に影響を与えたという点とモダニズム(近代化)に貢献したという点でしょう。彼等はそろっておのおのの独自性を活かしてヨーロッパをはじめ世界中の人々を啓蒙してきました。





(古き良き時代が過ぎるたびに)我々に残る教訓が「ネバー・アゲイン!(二度と繰り返すな)」という決まり文句(=教訓のことば)です。いわば今日、民族差別思想に対してネバー・アゲイン! 民族優越主義に対してネバー・アゲイン! 神否定とホロコースト否定、人権法の無視、また虐殺に対してネバー・アゲイン! 冷血な独裁者、民族虐殺を推進する扇動政治家に対してネバー・アゲイン! そう我々は声を大にするのです。


特定の人種や民族を抹殺せんとして世界を脅かす動きは、正気とは思えない精神を持って不真実を語る、そういう者が大量殺人兵器を保有しはじめた時、疑いなく見えてきます。


第2のホロコーストを引き起こさないために、我々は子供たちにもっと教育しなければなりません。民族間の平和な関係づくりを目指して他者を敬うようにと教えていかねばなりません。お互いの文化と、人類共通の価値観を大切にしようではありませんか。常に新しい気持ちで十戒と向き合おうとする精神を大切にしようではありませんか。
今は、顕微鏡や望遠鏡で覗けばこの世の不思議が科学的に見えてしまう時代です。今は、人間の心身に効く新しい薬が開発される時代です。飢える者には食料を、渇く者には水を、窒息しそうな者には新鮮な空気を、そして全人類とは知恵を分かち合う、そういう時代に生きているのです。

(その4に続く)
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2010年2月9日火曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その2)

前回の続きです。アウシュビッツ収容所解放65周年記念日における、シモン・ペレス大統領の演説です。
(翻訳: sunny+k)
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ドイツ各地の選ばれた閣僚と代表者の皆様を前に、今私は、ユダヤ人の国、ホロコーストを生き延びた者の安住の地、イスラエル国を代表してここに立っています。

私は自身が高踏的で逆に落とされやすい微妙な立場に立たされた者であるが故に、身を低くして申し上げます。(同様の重要な役職につく)皆様も今私の云わんとしている事を理解し、私の立場を考慮して下さることをひたすらにお願いします。

私の目に今でも映し出される心の光景があります。それは私が深く尊敬する人物ラビ・ツビィ・メルツァー、ハンサムで威厳に満ちた私の祖父の姿です。この私が祖父の最愛の孫とされていたことは、本当に幸せでした。

祖父は私の人生の導き手であり助言者でした。そしてこの者にトーラーを教えてくれた人物でした。彼は白い髭と黒い眉毛が印象的で、私の故郷ベラルーシのヴィシェンニェフ市のシナゴーグ(ユダヤ教会堂)でラビをしていました。私の目には、祈る会衆に紛れ込み、タリート(祈祷用のショール:写真)で顔を覆う祖父の姿が常に映ります。その祖父のタリートの中に私も入り込み、彼の落ち着いた深みのある声に耳を傾けると、それだけで心気充実してくるのです。あのヨムキップールに吟唱する祖父のコル・ニドレイ*)は私の耳に今もこだましています。我々の信仰では天地万物の創造主が人の生死の一瞬一瞬を定めている、と私は(祖父の声を聴きながら)そこで信じとるのです。(*ユダヤ教の信仰に回帰する際にヨムキップールで捧げる詩で、その内容は、今まで果たせなかった人間的誓いを神に許して頂くというもの。

祖父は、当時11歳で駅のホームに立つ私を見送ってくれました。あの時の光景は忘れられません。あの日あの場所で私はイスラエルの地へ旅立ったのですから。祖父は私を強く抱きしめ、こう言いました。「我が子よ、常にユダヤ人として生きるんだぞ。」それが祖父の口から聞く最後の言葉となりました。そして汽笛は鳴り、列車は動き出したのです。私は祖父の姿が視界から消え去るその間、ただ彼だけを見つめていました。あれが最後の別れとなりました。

間もなくナチス党がヴィシェンニェフの街に押し寄せ、祖父のシナゴーグの会衆全員が強制連行されました。祖父と彼の家族は行列の先頭に立たされ、私がよく入り込んだあのタリートで祖父は自身の体を覆いました。シナゴーグは完全に閉ざされ、木造建だったそこには火がつけられると、ほどなくして街の全ユダヤ人地区は灰と化していきました。この街で生き延びたユダヤ人はゼロです。

痛みをもってホロコーストと向き合うということは、人間の魂の最も深い部分に問い続けることです:
内在する悪は人間のどの部分の深みに横たわっているのか。
高度の文明と知恵を授かった民族(ゲルマン人のこと)はなにゆえに見過ごしたのか。 
あの残虐性をいかに分類したらよいのか。
「モラルの羅針盤」(カトリックのこと?)はいつまで「沈黙」を指し続けるのか。 
何故、人は理性的な熟慮を欠いてしまうのか。 
何故、ある民族が他の民族より優秀だったり劣等だったりするのか。
又、未解決の最終問題といえば「なぜナチスはユダヤ人の存在を最大に恐れ、危険視したのか?」でしょう。

なにが彼等を、あらゆる資源と巨財を投じてまで「ユダヤ人殺し」へと駆り立てていったのですか? 自分達の敗北が地上線に見えてきても、彼等の(ユダヤ人殺しという)ねらいが挫かれず続いたのは何故ですか?

“ユダヤパワー”なるものが(新聖ローマ帝国から)千年も続くドイツ帝国の繁栄に歯止めをかける危険性があったというのですか? 受難の民が、圧制者の革長靴で蹴られながら、殺人マシーンと化したナチス党にどうして逆らえるのですか。 ヨーロッパ・ユダヤ人社会に、いくつの軍事組織が在って、処分されたたというのですか? 戦車や戦闘機や銃は見つかりましたか?

まるで狂犬病にかかったようにむき出した嫌悪を、「反セム主義」という言葉で単純に表現することなどできません。良く使われる表現ですが。この一言では、ナチス政権のあの燃えるような感情と残忍性を含んだ動物的欲求、そしてユダヤ人撲滅への病的に執拗な行動を到底説明することはできません。

戦争の目的はヨーロッパの征服で、ユダヤ人の歴史(記録)を一掃するためではなかったはずです。ところがヒットラー政権にとり「我々ユダヤ人」は、軍事的ではなかったにせよ道徳的脅威と見なされたのです。全ての人間は神の御姿(かたち)に似せて創られ、万人は神の前に等しい、という我々の信仰は反対勢力に否定されたのです。

もし、ひとりのユダヤ人が自分自身を守りきれなかったとしても、その男が、それでも神の名を聖別し、神の要求を満たして人生を全うすることは可能です。なぜならユダヤ民族が誕生したその日以来、我々は如何なる時にも如何なる場所でも「汝、殺すなかれ! 汝、愛せよ、その隣人はあなたのようだ! 汝、平和を追い求めよ!」と神の戒めを受けてきたからです。これらの戒めを疑わずに実践したこの単純な男というのは、実は私が愛し尊敬してやまない私の祖父のことです。
ナチスは祖父を地獄へ送ろうとしました。祖父とその兄弟たちは生きたまま火で焼かれ、真っ黒い塊にされたからです。けれども彼等の魂まではそうはなりません。

ナチス党は我が民族を悪魔に見立てた宣伝映画を作りました。又、彼等の雑誌「Der Stürmer(“あらし者”の意味:写真)」を通して、我々に「寄生虫、ドブネズミ、伝染病」等とレッテルを貼り回しました。彼等は大衆が持っていた正義や慈悲という良心を取り去ろうとしたのです。

(その3に続く)
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2010年2月7日日曜日

アウシュビッツから65年:ペレス大統領の心痛と心底(その1)

以下はイスラエル国のペレス大統領が、去る1月27日にアウシュビッツ強制収容所解放65周年記念日に、ドイツ連邦議会(下院)で演説したスピーチです。ペレス大統領の齢(86歳)を考えると、渾身の力を振り絞った、歴史的スピーチだったのでは。そこで私自身の理解のためにも和訳してみることにしました。長いので数回に分けてアップします。訳文を通して彼の心痛を理解し、心底にあるものを少しでも汲み取れたらと願います。
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演説:シモン・ペレス大統領   訳:sunny + K

今、私は全ユダヤ人の故郷、イスラエル国を代表する者としてここに立っています。
私の心は、ぞっとするような過去の記憶で今も痛み、同時に私の目は、新しい未来を、憎しみから解かれた世界をはるかに見ています。
そこは「戦争」や「反ユダヤ主義」がすでに死語とされた世界です。
何千年も我々と共にあったユダヤ教の伝統に、死者を悼(いた)む時にささげるアラム語の祈りがあります。死者とは先立って逝った我々の父たちであり、母たちであり、兄姉たちです。
憶えば、優しい腕に抱かれた幼子らはそれぞれ母達の腕からもぎ取られ、ガス室へ押し込まれていきました。そのガス室からは煙が上がり、父たちは我が子のおぞましい最後をそこに見、恐れおののきました。この追悼の祈りを誰も捧げることさえできませんでした。
ですからここに列席された皆様、この機会に、私はこの祈りをささげることにします。600万人の灰となったユダヤ人ひとり一人を心にとめながら。
私の友、ドイツを代表する皆様、指導者の皆様、聴いて下さい。今、ホロコースの生存者たちはイスラエル国で、世界の各地で、自分たちの最後を迎え、次々にこの世を旅立っています。その生存者数は日に日に減少しています。
時を同じくし、(ユダヤ人)撲滅という地上で最も憎むべき業に関与した者たちが、未だドイツとヨーロッパをはじめとする世界各地に(なんの裁きをうけないまま)生存しているのです。
私の願いは、こうした人間が正しい裁きを受けるために、皆様が義なる労を惜しまないで欲しいということです。
これは我々の目に「復讐」として写るものではありません。これは戒めとされるべきです。今日の世代の若者はどこに住んでいても「ゆるされた環境」の中にいます。だからこそ、彼等にとりこれは絶対に忘れてならないものにしなければなりません。つまり過去に何が起きたかを知り、平和と和解と愛以外にとって代わる手段がないように、つまり如何なる手段を用いてもその同じ過去が繰り返されないように、そのための戒めとなるべきです。

今日、世界ホロコースト記念日は、65年を経て、ようやく日の光を浴びる様になりました。(つまり、第二次世界大戦の)6年間の我が民族撲滅の隠された史実に太陽が差し込み、全ては明るみに出ているからです。
この日、アウシュビッツービルケナウ強制収容所(写真)の大地に、大量の血が流され(遺)灰がまかれたことを覚え、この焼却炉跡地からは(追悼の)煙が今後も昇り続けることでしょう。

しかし今、この町の駅のプラットホームは黙しています。「 "selection ramp"(死の門からの鉄道レール:写真右)」には人ひとりいません。大量殺戮の場となったこの広大な地には、騙されたように静かな空気のみが漂っています。
1945年1月27日、世界はこの事実に目覚めました。遅すぎましたが。つまり600万人のユダヤ人が消滅した事実にです。
ただ我々だけが、凍結した地面の下に深く押し込まれた細き声に、耳をとめています。その声は耳をつんざく(死者たちの)悲鳴でしたが、今は受動的で静かな天国へとあげられていきました。
今日は死者を追悼するだけの日ではありません。想像を絶する残虐行為に直面し、人間が自らの良心を痛める日です。また人類が(正義の)行動を先延ばししたことによって生じた悲劇を心に刻む日です。

それは、世界で燃え上がる炎にあまりにも不注意だった点、殺人マシーンと化した化け物を何日も何年も野放しにしてしまった点から学ぶ、そういう日です。
(解放日からちょうど)三年前の1942年1月20日、ここからそう遠くない美しい湖畔にあるヴァンゼーの別荘(写真)で、ラインハルト・ハイドリヒ(ユダヤ人大量殺害を工業的に行うことを推進した男)率いるナチス高官と幹部の集団はヴァンゼー会議を開き、「ユダヤ人問題における最終的解決」(=ユダヤ人虐殺政策)を決定しました。
この文書(ユダヤ人問題の最終的解決)は、アドルフ・アイヒマンが作成し、それにより人種は特定され(ヨーロッパ各地のユダヤ人がここポーランドの)絶滅収容所に集められ、殺されていきました。
全ヨーロッパのユダヤ人がです。ソビエト連邦、ウクライナ、ポーランド在住の300万人を初め、小国アルバニアに居たわずかユダヤ人200人までも狙われました。延べ1100万人のユダヤ人が(大量虐殺の)対象になったのです。
ナチス党は手抜きなき仕事(殺戮)をやりました。ヴァンゼーからアウシュビッツに至るまで、ガス室から焼却炉に至るまで、実に効果的にやったのです。
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