2009年9月5日土曜日

“ダビデの町”で3世紀のローマ人の住居群が見つかる。

東エルサレムに位置する「ダビデの町」は、聖書の記録では“シオンの要害”として知られ、今から約三千年前に、イスラエル全部族の王とされたダビデ王がイスラエル民族の中心地として選び取った所です(写真)。聖書サムエル記下5章6〜9節の記録では、このシオンの要害をエブス人から攻め取った、とあります。ダビデの息子、ソロモンの時代に、この場所とその北の丘に王宮と神殿が据えられ、正式にイスラエルの都と成りました。このダビデの町、もしくは「シオンの要害」は今日、世界で最も考古学上重視され、ここ70年に渡っては発掘調査が続けられている所です。


先月17日、イスラエル考古庁は、この場所で3世紀のローマ人の住居遺跡が発見されたと発表しました(写真2枚目)。調べでは、この遺跡は一平方キロメールに及ぶ、二階建て住居群だったようで、イスラエル考古庁によって現在調査が進められています。調査隊ディレクターは、ベン・アミ博士(Dr. Doron Ben-Ami)。博士は、これらの建造物は4世紀(363 A.D.) にイスラエル全土を襲った大地震で崩壊し、ローマン・コロニーが壊滅しただろうと述べています。詳しい記事はここを

ちょこっと歴史:イスラエルの地を「パレスチナ」とする呼び方は、2〜4世紀にこの地域に居住したローマ人が聖書名(ヘブル名)を捨て、ローマ式に改名し、広めた呼び方です。これは「バル・コクバの乱」として知られる第二次ユダヤ戦争(132~135 A.D.)の後、当時ユダヤ軍を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスが、ユダヤ人を嫌い、ユダヤ色を払拭するためにこの地を「シリア・パレスチナ」と呼んだことから始ります。加えて、ハドリアヌス帝は、聖書時代からエルサレムとされてきたユダヤ人の都も、「アエリア・カピトリーナ」Aelia Capitolinaとローマ式に改名しました。こうしてイスラエルの神殿や王宮がローマ人の手により破壊され、ローマ風の建築郡がこの地一体を覆い尽くしました。

今回の遺跡で分かった事はなんでしょうか。ローマ人が、ユダヤ人の都を壊して、荘厳なローマン・コロニーを築けたとしても、363 A.D.の大地震を予知し、壊滅を防ぐことができなかったということでしょうか。聖書名エルサレムを改名し、この地のユダヤ色を消そうとしたローマ人の壊滅の様子を、1700年経った後にユダヤ人の発掘隊に調査されるとは。単なる歴史のいたずらというより、エルサレムを守る大いなる方の存在を感じます。

写真)「ダビデの町」は、Biblical Hebrew Blog から借用。参考記事)8月17日付けエルサレム・ポスト紙

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